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- スーパーファミコンを開発 「自分の能力知り、一生懸命が肝心」と
※本文中の役職等は取材当時のものです。
スーパーファミコンを開発
「自分の能力知り、一生懸命が肝心」と
「ファミコン」の世界を語る
上村雅之氏
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授
兼任天堂(株)アドバイザー
上村 雅之(うえむら まさゆき)氏
(昭和42年 電子工学科卒業)
“電子”が縁でヘッドハント
上村さんは、本学を卒業して、早川電機(現在・(株)シャープ)に入社。半導体、医療機器、超音波などを扱う「産業機器事業部」営業部に配属された。営業部といっても周りはすべて技術者。コンピューターの入力パンチカードの読取り装置開発やトヨタ自動織機系列の糸切れ検出機、オートフォーカスのセンサーの開発もした。この部門は物理専門の人ばかりで、電子回路の設計は上村さんだけだったので、これが縁で4年後に引き抜かれる形で任天堂(株)に入社した。入社後はオモチャの開発、ゲームセンターの遊戯施設、テレビゲームの開発を担当。最後には会社が衛星放送を買い取り、その運営も担当した。
独自のオモチャを開発
任天堂は明治22年、京都で創業され、花札とかトランプが有名。京都ではまだ美術品としての花札があり、百人一首もよく知られている。60年代後半になると、オモチャを独自に開発。ヒット商品に〝NBブロック〟〝ウルトラマシン〟〝光線銃シリーズ〟がある。
父親・伊太郎さんは奈良県出身。呉服屋を営んでいたが、戦後は大阪・梅田でレコード店を経営。最後は「謡曲」のレコードを販売。「私も小学2年生から謡曲を習わされ、いやでいやで逃げ回っていました」と苦笑する。
「関東に出たい・・・」で本学へ
高校は京都府立鴨沂(おうき)高校(旧制・府立第一高等女学校)。本学受験は、「京都の大学を全部落ちてしまい、1浪して関西の大学も合格したが、関東に出てみたいと思い本学に入学した。関西から見ますと、千葉のイメージは穏やかな感じだったが、来て見ると関東ローム層でほこりっぽいうえ、山がなかった」。
大学ではワンゲル部に入り、3年生までに関東の山はほとんど登った。また、電子工学科なので、友だち4人と「テレビ技術研究会」というサークルを作り、カラーテレビ受信機を作ったりした。中村研究室(中村慶次郎教授)で真空管の研究もした。
テレビゲームは、76年以降、米国のマグナボックスという会社が、「テレビゲーム」という名前で売り出した。当時、米国のユタ大学の学生がコンピューターを使いウォー(戦争)ゲームを作り、ノーラン・ブッシュネルという人が、テレビのテニスゲーム「PONG(ポン)」を作り大当たりし、アタリ社を創設。その製品は、半導体にうまく組み込めたが、全家庭に普及するとやがて飽きられてしまった。半導体をテレビゲームに使える技術に磨き上げたのは、日本が開発した電卓だった。
その後、もっと面白いテレビゲームを開発しようと、三菱電機の半導体部門が電卓製造専門会社と共同開発したが、本業の電卓が米国で売上不振に陥り倒産、共同開発は中止されてしまった。三菱電機は任天堂と開発を継続。77年に任天堂が「カラーテレビゲーム」の名称で売り出して約150万台も売れた。76年にはアタリ社が「アタリ2600」という機種を開発。日本で開発された「インベーダー」を移植することで、80年にアタリブームを迎える。が粗悪ソフトの横行で翌81年には急に売れなくなり、〝アタリ・ショック〟が起きた。その後、ナムコの「パックマン」、任天堂の「ドンキーコング」が登場していずれも売れた。
また83年には、任天堂は日本国内でファミコンを出したが、すぐには売れなかった。ところが、日本の社会情勢の変化で子どものゲームセンター立ち入り規制が出て、ゲームセンターで遊べなくなった「ドンキーコング」を子どもたちが家庭のファミコンで遊ぶようになった。85年には任天堂が「スーパーマリオ」を出して大ヒット。その後、上村さんは、グラフィック能力や音が素晴らしい「スーパーファミコン」を登場させた。
現在は、立命館大学大学院教授で、かつ任天堂(株)アドバイザーという特殊な肩書きで活躍している。後輩に対しては「才能の問題もあるが、何でも徹底して突っ込んでやってほしい。就職時の面接でも迫力が大切だ」とアドバイスしている。
ご自身が好きな言葉は『自分の能力を知り、一生懸命やること』だそうだ。
NEWS CIT 2005年2月号より抜粋