2005.2.15

2面

酒井君、デビュタント特別賞に輝く
 
 
ベストデビュタント賞&ベストデビュタントコレクション
“恩師”井村先生に恩返しを・・・

 ファスナーで知られるYKKが、ベストドレッサー賞を主催してきた日本メンズファッション協会(MFU・池田ゆう理事長)とともに、「ベストデビュタント賞&ベストデビュタントコレクション」を創設した。昨年9月、「第4回YKKファスニングアワード」グランプリに輝いた酒井俊介君(工業デサイン学科4年)が、そのデビュタント特別賞を受賞した。
 昨年11月30日、「第1回ベストデビュタント賞」授賞式が赤坂プリンスホテルで行われ、続いて「デビュタントコレクション」が開催された。「ベストデビュタント賞」とは“ファッション部門”“映像・グラフィック部門”“空間・インテリアデザイン部門”“音楽部門”の各部門で、今年もっとも輝いた若手クリエイターに贈られる賞で、いずれも世界的に活躍している4人が受賞した。その中で酒井君は学生ながら特別賞を受賞したことは快挙といえる。
 酒井君は「今回は受賞の喜びよりも、様々な分野の第一線で活躍している著名人と一緒に、あのような場に立つという貴重な体験の方が心に残りました。YKKファスニングアワードの応募から今回の受賞まで、昨年は様々な事がありました。そのきっかけを作ってくれたのは恩師である井村五郎先生。体調を崩され、入院してから予測しなかった突然の訃報に、お礼も言えなかったことを後悔しています。先生に教わったことを今後の人生に活かすことが私に出来る井村先生への最高の恩返しになると思うので、これからも頑張りたい」と語っていた。
 

酒井君がデザインした作品

  デビュタント特別賞受賞の酒井君
 
 
17年度入試志願者
 
 
センター利用・・・7821人  2月前期・・・8410人
 

 
 千葉工業大学の平成17年度大学入試センター利用試験が1月15日、16日の両日、次いで2月前期試験が2月1、2、3日の3日間行われた。2月前期試験では、今年度から地方試験会場を横浜と立川にも新設し、地方13会場とした。
 2月前期試験初日は、前日からの大雪の影響で、1日の新潟・広島・福岡の3会場で試験開始時間を30分繰り下げたほか、2日の名古屋会場では1時間繰り下げて試験が実施されたが、混乱はなかった。
 志願者数は、センター利用が7821人で昨年度より1648人増加、2月前期では8410人と昨年度より592人減少した。なお、今回から合否の確認を本学ホームページ上で行えるようにした。

 

▲2月前期入学試験の合格発表を見て喜びの笑顔で報告する受験生たち

 
 
活躍する校友
 

スーパーファミコンを開発
「自分の能力知り、一生懸命が肝心」と
 
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授
兼任天堂(株)アドバイザー
上村 雅之氏
  (うえむら まさゆき) (60)
(昭和42年 電子工学科卒業)
 
“電子”が縁でヘッドハント

上村さんは、本学を卒業して、早川電機(現在・(株)シャープ)に入社。半導体、医療機器、超音波などを扱う「産業機器事業部」営業部に配属された。営業部といっても周りはすべて技術者。コンピューターの入力パンチカードの読取り装置開発やトヨタ自動織機系列の糸切れ検出機、オートフォーカスのセンサーの開発もした。この部門は物理専門の人ばかりで、電子回路の設計は上村さんだけだったので、これが縁で4年後に引き抜かれる形で任天堂(株)に入社した。入社後はオモチャの開発、ゲームセンターの遊戯施設、テレビゲームの開発を担当。最後には会社が衛星放送を買い取り、その運営も担当した。


▲「ファミコン」の世界を語る上村雅之氏
独自のオモチャを開発

 任天堂は明治22年、京都で創業され、花札とかトランプが有名。京都ではまだ美術品としての花札があり、百人一首もよく知られている。60年代後半になると、オモチャを独自に開発。ヒット商品にNBブロック∞ウルトラマシン∞光線銃シリーズ≠ェある。
 父親・伊太郎さんは奈良県出身。呉服屋を営んでいたが、戦後は大阪・梅田でレコード店を経営。最後は「謡曲」のレコードを販売。「私も小学2年生から謡曲を習わされ、いやでいやで逃げ回っていました」と苦笑する。

「関東に出たい・・・」で本学へ

 高校は京都府立鴨沂(おうき)高校(旧制・府立第一高等女学校)。本学受験は、「京都の大学を全部落ちてしまい、1浪して関西の大学も合格したが、関東に出てみたいと思い本学に入学した。関西から見ますと、千葉のイメージは穏やかな感じだったが、来て見ると関東ローム層でほこりっぽいうえ、山がなかった」。
 大学ではワンゲル部に入り、3年生までに関東の山はほとんど登った。また、電子工学科なので、友だち4人と「テレビ技術研究会」というサークルを作り、カラーテレビ受信機を作ったりした。中村研究室(中村慶次郎教授)で真空管の研究もした。
 テレビゲームは、76年以降、米国のマグナボックスという会社が、「テレビゲーム」という名前で売り出した。当時、米国のユタ大学の学生がコンピューターを使いウォー(戦争)ゲームを作り、ノーラン・ブッシュネルという人が、テレビのテニスゲーム「PONG(ポン)」を作り大当たりし、アタリ社を創設。その製品は、半導体にうまく組み込めたが、全家庭に普及するとやがて飽きられてしまった。半導体をテレビゲームに使える技術に磨き上げたのは、日本が開発した電卓だった。
 その後、もっと面白いテレビゲームを開発しようと、三菱電機の半導体部門が電卓製造専門会社と共同開発したが、本業の電卓が米国で売上不振に陥り倒産、共同開発は中止されてしまった。三菱電機は任天堂と開発を継続。77年に任天堂が「カラーテレビゲーム」の名称で売り出して約150万台も売れた。76年にはアタリ社が「アタリ2600」という機種を開発。日本で開発された「インベーダー」を移植することで、80年にアタリブームを迎える。が粗悪ソフトの横行で翌81年には急に売れなくなり、アタリ・ショック≠ェ起きた。その後、ナムコの「パックマン」、任天堂の「ドンキーコング」が登場していずれも売れた。

 また83年には、任天堂は日本国内でファミコンを出したが、すぐには売れなかった。ところが、日本の社会情勢の変化で子どものゲームセンター立ち入り規制が出て、ゲームセンターで遊べなくなった「ドンキーコング」を子どもたちが家庭のファミコンで遊ぶようになった。85年には任天堂が「スーパーマリオ」を出して大ヒット。その後、上村さんは、グラフィック能力や音が素晴らしい「スーパーファミコン」を登場させた。
 現在は、立命館大学大学院教授で、かつ任天堂(株)アドバイザーという特殊な肩書きで活躍している。後輩に対しては「才能の問題もあるが、何でも徹底して突っ込んでやってほしい。就職時の面接でも迫力が大切だ」とアドバイスしている。
 ご自身が好きな言葉は『自分の能力を知り、一生懸命やること』だそうだ。

 
 
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