• トップページ
  • バス事業黒字化の立役者 長電バスのスローガン -安心・安全・信頼の輸送にやさしさを添えて-

※本文中の役職等は取材当時のものです。

バス事業黒字化の立役者
長電バスのスローガン
-安心・安全・信頼の輸送にやさしさを添えて-

モットーは「継続は力」と湯本さん
モットーは「継続は力」と湯本さん

長電バス(株)代表取締役社長

湯本 卓邦氏

(昭和44年 工業経営学科卒業)

 湯本さんは、全国のバス業界でも早い時期に構造改革を行ったリーダーだ。謙虚な発言の中に自負が感じられる。いつも頭にある言葉は「継続は力」だという。湯本さんが積み重ねてきた経験が、このモットーを裏づけている。

 昭和44年に千葉工大を卒業し、すぐ故郷の長野県に戻って長野電鉄(長電)に就職した。卒業時、担任の野口盛雄教授から「助手として残らないか」と誘われた。95%は大学に残るつもりだった。しかし、故郷の木島平村村長を28年務めた父上から「長男なのだから帰ってほしい」と請われ、教職は断念したという。

入社時の配属は自動車部

 長電は、大正9年に前身が創業、現在は長野県北部「北信」地域で鉄道、バス、タクシーなどの交通業を柱に関連会社16社のグループを形成している。湯本さんは入社と同時に自動車部に配属され、バス事業に携わる。

 長電バスでは、長野市を中心とした北信をカバーするバス網による乗合部門、長野と東京池袋、新潟、京都・大阪を結ぶ都市間高速バス、そして貸切(観光)バスの3部門を持っている。バス事業の経営は全国どこでも厳しく、各社とも改革を迫られている。

 長電は昭和60年にバス部門の切り離し計画を作ったが、労働組合などの反対で一時頓挫した。平成7年までバス事業の大部分は電鉄本体の直営が続いた。しかし、地域ごとの「小分社化」に理解が得られ、昭和61年以降、信濃交通、信州バス、整備会社など新会社を設立、事業を少しずつ移管してきた。

 平成7年に残されたバスの基幹部分を分社して、長電バス株式会社が誕生、現在の基になっている。18年には分社したバス部門の4社を再び長電バス(株)に再編統合するなど改革は今も続いている。

 湯本さんは7年間長野電鉄の役員をした後、平成16年から長電バスの社長を務めており、平成19年からは長野電鉄の常務取締役も兼務している。長年にわたり「分社化→各分社の自立→統合」という流れを主導。この流れはバス部門を持つ全国の鉄道会社に影響を与えており、湯本さんらは「先駆け」となった。

「外車に乗れる」が魅力で

 昭和40年、湯本さんは機械が大好きな高校生として千葉工大を受験した。当時、千葉工大の授業料は比較的安く、教育面では一般教養を重視していた。「機械バカ」にはなりたくなかった湯本さんにはぴったり。第2志望の工業経営に合格、ちょっぴり不満ながら入学した。

 入学直後に自動車部の勧誘を受けた。まだ自家用車など少ない時代、車に乗れるチャンスだとすぐ入部した。部員が外車を乗りこなしていたのも魅力だった。それから4年間、湯本さんは自動車に明け暮れる。タイムラリー、フィギュアなどの練習を連日行ったが、パワーステアリング全盛の今と違い、幅寄せを繰り返していると手の平はマメだらけになった。今、強豪として鳴らす自動車部の基礎を作った世代なのかもしれない。部のOB会が楽しみだと湯本さんは目を細める。

尺八に心奪われて35年

 昭和48年ごろ、自動車通勤の途中、ラジオから尺八の音が流れた。「いいなあ」―その日のうちに楽器店に行きプラスチックの尺八を買う。店員に聞いて会社近くの師匠の元へ。仕事で宿泊勤務があり、思うように練習に行けない。しかし、あとから入門した人たちがうまくなるのを知って発奮。当時、給料の3倍もする8万円の竹の尺八を月賦で求め、猛練習した。現在湯本さんは師範として弟子たちに教える実力者だ。

「継続は力」モットーに

 長電バスは分社当時の大きな赤字を克服、平成19年には黒字に転換するという。湯本さんは年3回行われる社員全員教育に必ず出席して、社長の気持ちを伝える。2年前に自らスローガンを作った。(タイトル部分に掲載)

 「やさしさ」には「環境」への思いも込めているが、女性の活動を拡充することもイメージしているという。

 「千葉工大を卒業してよかった」としみじみ語る湯本さん。「大学は総合的に人間を育ててくれた」とも言う。

 自動車部の活動を支えるための夜勤アルバイトで早朝に教室で寝込み、目が覚めたら他学部の授業中の教室だったというエピソードも。「大学生活から、思いやり・チームワークを学んだ」。長電バスや尺八の猛練習を通して、常に「継続は力」が湯本さんのモットーになっていった。

NEWS CIT 2007年12月号より抜粋