• トップページ
  • 自力開拓で投資の世界へ 絶対あきらめず、最善尽くす

※本文中の役職等は取材当時のものです。

自力開拓で投資の世界へ
絶対あきらめず、最善尽くす

「気軽に社へ訪ねて来てください」と話す外山さん
「気軽に社へ訪ねて来てください」
と話す外山さん

のぞみ証券株式会社執行役社長

外山 一樹(とやま いつき)氏

(昭和48年 工業経営学科卒業)

 工学のフィールドから兜町の荒波へ―東京証券所正会員110社の一角を占める「のぞみ証券」をリードする外山さんは、本学OBとしてはきわめて珍しい人生を歩んできた。

 東京で生まれ育ち、ラグビーで知られる国学院久我山高を卒業した。普通ならそのまま系列の大学へ進むのだが、「文系科目がちょっと苦手だった」ので本学を選んだというところからして、独立独歩の人である。

 入学したのは1969(昭和44)年。東大・安田講堂の攻防の影響で東大がその年の入試を中止したほど学生運動の激動期だった。「通学途中で降りた新宿駅は、安保条約反対のデモを追い散らすため機動隊の放った催涙弾の臭いがかすかに漂っていましたね」と当時を振り返る。

 全共闘運動高揚期が過ぎようとしていたキャンパスは、やがて平穏な時代へ。外山さんは友人に誘われて千種寮へ足繁く通うようになり、後日、NHK技師になる気の合った先輩や同志とモダンジャズバンドの同好会を結成、楽しい時間を送った。

 「本来はロック好き。でも、『それは日和見だ』と言われ、フォービートのモダンジャズを演奏しました。寮では裸祭りを見学したり、まるで寮生扱い。中山競馬場へも年中通った。当たらなかったけど、ハラハラドキドキはあった。勉強? あまり覚えてないなぁ」と明るく笑う。

 運命はどこで変わるか分からない。外山さんにとって、それは4年のゼミ選択のときに訪れた。ひと口に工学系の専攻といっても、生産や工程の管理から経営管理まで幅広い。足の悪い外山さんに工場実習は厳しく、代わってたたいたゼミの門が、沖山正之教授(公認会計士)の財務管理。有価証券のなんたるかから学んだ世界は新鮮だった。「スリリングとも言えた」。

 その夏、当時は福山証券と名乗っていた「のぞみ証券」(2000年社名変更)の玄関を、社員募集広告の載った新聞を手にくぐった。就職課を通さない自力開拓。意外にも採用された。

 法人部に属し、同輩や先輩は優しかったという。都心のオフィスへマイカー出勤し、駐車場から自席まで支えて歩いてくれたり、コピー取りを手伝ってもらったり。トイレまで同伴してくれた人も。

 とはいえ、投資はやはり生き馬の目を抜く世界。浮き沈みは激しく、仕事はきついと推察するが、「親のお金を預かって失敗したこともありますけど、主に顧客の民間会社の資金運用の窓口になるトレーディング業務をこなしてきました」。

 バブル以前、昭和58年頃から銀行の子会社、福山証券は日本債権信用銀行のおかげで、バブルの影響はあまり受けなかった。さらに98年には同行が経営破たん、銀行は一時国有化の憂き目に(現・あおぞら銀行)。

 「知恵を絞ったすえ、再度ディーリングに望みを託した。それがうまくいき、息を吹き返した」。その功もあってか2003年、トップの椅子に。銀行筋でもオーナー筋でもなく、ディーリング畑から初の社内登用で社員130人の先頭に立つ。

 「社長になる直前、株価は7000円台。そのあおりを受けて、のぞみ証券は大ピンチになり、社長交替で私が社長になった。社長になった途端、株価は7000円の大底。もがいていたら外国人投資家が市場に戻り、助かった。ついているのかな。ともかく、やめたら100%ダメだが、くじけず最善を尽くす。そうすれば成功の確率は残る。やりたいこと、やっていることは絶対あきらめないことです」

 司馬遼太郎「坂の上の雲」を愛読する。組織運営の妙、東郷平八郎にひかれるという。オヤジバンドは趣味で続行中だ。

 それにしても本学卒業生は後に続けるのか。「ウチでは1人ですが、優秀な本学OBが中堅トップで頑張っています。みなさんもいつでも気軽に社へ訪ねて来てください」と後輩に声をかけている。

NEWS CIT 2008年3月号より抜粋