※本文中の役職等は取材当時のものです。

GyaO(ネットで無料の動画配信)立ち上げる

「好きなことをやろう…」と二木さん
「好きなことをやろう…」と二木さん

株式会社USEN取締役CTO

二木 均氏

(昭和53年 電子工学科卒業)

 ユーザーが1300万人以上というUSENの無料ネット動画配信サービス「GyaO(ギャオ)」。2月1日にはPCがなくてもGyaOをテレビ画面で見られる専用機器「ギャオプラス」も発売され、USENはテレビのチャンネル争いに参戦した。そのGyaOの新システムを構築した責任者が二木均さんである。

 二木さんが電子工学科を卒業した1978年当時は、まだインターネットのない時代だった。ネットワーク基盤を開発した米国のスリーコム社が設立されたのが79年。学術研究用のネットワーク基盤が作られ、大学などの大型コンピュータがつながれて世界中に広がり始めたのは80年代後半である。そうしたネットの揺籃期を二木さんは最先端のテクノロジーに取り組んで、キャリアを積み上げた。

 電子計測を専攻した二木さんが最初に就職したのは中央電気工事(株)。そこでは大学で学んだ専門知識を生かすことができず、2年後には明電プラントに転職。明電舎に出向して水処理プラントをコンピュータ制御する仕事に就いた。そこで使う資材などの見積もりシステムを、ワープロ機能を使って作り、提案した。しかし、社長が理解してくれず見切りをつけた。そして住商エレクトロニクス(株)に移った。このころからITに関係した仕事に従事するようになった。スーパーコンピューターをネットワークでつなぐ仕事をし、「やっと電子工学科で学んだことが役立つ仕事をできるようになった」と振り返る。

 住商エレクトロニクスには7年いて、その後、スリーコム(株)、ベイ・ネットワークス(株)、PSINet、日本ネットワーク・アプライアンス(株)と移籍する。それぞれの会社では、テクニカルセンター長、取締役、システム開発部長、チーフシステムズアーキテクトなど責任ある役職を背負った。

 (株)有線ブロードネットワークス(現USEN)に入社したのは2002年。CTOとしてであった。同社は2001年より光ファイバ事業に取り組んでいた。そのため同社の技術コンサルタントをしていた二木さんが招かれたのだった。同社は03年10月に中小法人向け光ファイバー対応IP電話サービス「FTフォン」の販売を開始。さらに翌年6月には集合住宅向け光ファイバ・サービス「BROAD―GATE01」を販売開始した。

 二木さんが次に取り組んだ大事業が「GyaO」である。USENは楽天と共同で有料の動画配信サービス「Show Time」を運営していた。このサービス自体は黒字になっていたが、会員数は伸び悩んでいた。原因の一つは有料であることと考えられた。そこで宇野康秀社長が、無料配信することを提案した。すでに「Show Time」の中で無料コンテンツを利用した実験を行い、加入率が有料コンテンツに比べて50倍まで伸びる成果を得ていた。

 リスクはあった。エンドユーザーをどれくらい得られるか、広告がつくか、テレビ業界の反対など未知数のことが多かった。ともあれ本格的な大規模システム構築を二木さんが担当、指揮した「GyaO」は小さなシステムで05年4月にサービスを開始、11月には大規模システムにリプレースした。プロバイダや接続回線に関係なく映画やドラマ、音楽などを無料で視聴できることがユーザーに評価され、視聴者登録は爆発的に増えた。初めは「GyaO」の動向を伺っていた大手広告代理店も次第に理解を示すようになった。

 一方、サービスを支える当初の配信システムは急増するアクセスに対応しきれなくなった。このため1000万人の視聴者登録に対応できる新システムを構築、05年11月に稼動開始した。新システムは空前の規模ということもあって、設計段階から多くの困難があったが、約3カ月間で完成させた。

 二木さんは岐阜県で生まれて大垣北高校を卒業し、本学に進んだ。「3年生まではあまり学校へ行かない学生でしたね。クラス担任は本岡誠一先生(現学長)でしたよ」。コンサートミキサーのアルバイトが面白く夢中になった。世界的なサックス奏者、渡辺貞夫さんのバンドの仕事もしたという。

 4年生の1年間はまじめに学校へ通った。電子計測を専攻し、研究室では中村慶次郎先生の指導を受けた。「中村先生は引退される前でしたが、非常に厳しかったですね。ハンダゴテで手が焼けどだらけになるほど回路作りをしましたよ」。

 在学の後輩には「好きなことをやっている方がいいと思う。何か一つのことをきちんとやっていけば、他のことをやってもちゃんとできる習慣がつきます。人生の自信につながると思いますよ」とアドバイスしている。

NEWS CIT 2007年4月号より抜粋