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2018.1.15

マルチブロックで地方創生


「御宿こども工務店」建都3年87人が参加
 杉板製の簀の子を二重に重ねたような形状の「マルチブロック」を、本学の学生と房総・御宿町の子どもたちが力を合わせて作り、活用法を考える「〜DIYでまちづくり体験〜御宿こども工務店」が昨年11月12日、同町の旧岩和田小学校校庭で開催された。
 建築都市環境学科の鎌田元弘・内海秀幸両教授が担当する3年次後期の演習「都市環境デザイン」での取り組みで、昨年に続いて2回目。本学と御宿町商工会青年部、町役場が共催し、本学の学生87人、同町内の子ども53人と父母のほか、商工会に加盟している建築・土木業者らが参加した。
 マルチブロックはまず本学新習志野校舎で10月22日、学生たちが御宿から駆け付けたプロの大工さんたちの手助けで8割方の組み立てを終えた半製品を当日、会場へ。そこで学生が子どもたちを指導して完成させ、さらに活用法を考え合う。
 ベンチ、椅子、机、縁台、ジャングルジムなど、遊び心たっぷりで、大人も子どもも楽しめる使い方の提案がたくさん出てきて、会場は楽しい笑い声に包まれた。ブロックの板の裏側には製作に携わった子どもの名前が書きこまれ、「これはボクが作ったんだ」と後で分かる仕掛け。
 こうして出来上がったマルチブロック約60台は同町内の認定こども園と児童館に設置する予定で、本学の有志学生がボランティアで設置する。
 「都市環境デザイン」はデザイン・計画系の鎌田教授と構造・材料系の内海教授が掛け合い形式で進めるアクティブラーニングの演習。受講生にそれまでに座学で得た知識の実践への応用を体験・習得させるのが狙いだ。学生たちはこの体験で得たことを就活で使うエントリーシートにまとめて発表した。
 一方、「こども工務店」の活動は、御宿町にとっては地域おこしや若者の定着を促し、地方創生につなげたいという期待がある。大学教育の視点からは、地域課題を通した教育・研究の構築という新しい挑戦でもある。
子どもたちとマルチブロック作り
子どもたちとマルチブロック作り
旧岩和田小の校庭で記念撮影
旧岩和田小の校庭で記念撮影

ロボット出前授業


香取市の小学校で総合工学研、入試広報課
 県内の香取市立小見川北小学校で12月16日、本学のロボット出前授業が全校生徒と保護者らを対象に行われた。
 科学技術を身近に感じてもらおうと、授業は文化会総合工学研究会(石川直生部長=未来ロボティクス学科2年)の学生たちによる「ロボット操縦体験」と、入試広報課の畑憲作次長による「ロボット講義」。
 同小体育館中央にロボットフィールドが設けられ、学生たち自慢の二足歩行ロボットが登場。児童たちは「カッコいい!」と歓声を上げ、ロボットの説明が始まると熱心に耳を傾けた。
 「ロボットを操縦してみたい人!」の掛け声で、児童たちは操縦体験に挑戦。コントローラーの扱い方を教わり=写真、簡単な操作でロボットが機敏に動くと、喜びの声を上げた。倒れてもすぐに起き上がる様子には、保護者の間にも拍手が起きた。
 ロボット同士のバトルもお披露目。学生たちの真剣勝負に、応援の声が響いた。
 ロボット講義では、畑次長が、本学の災害対応ロボットが災害地で活躍していることや、未来社会へ向けた最新ロボット事情を紹介。児童から製作期間や製作費を質問されて、丁寧に回答し、「学生たちは一生懸命勉強してロボット作りをしているんだよ」と、科学技術への興味を誘った。
 本学では香取市と2016年に包括的連携協定を結んでおり、昨年7月には、市立八都小学校で教育センターの轟木義一准教授が実験工作授業を行った。

活躍する校友


「他分野の知も」
いきなり社長! 奮闘16年
株式会社阿部重組社長
阿部 吉平さん(あべ きっぺい)さん(44歳)
(平成13年、建築学科博士前期課程修了)
阿部 吉平さん
「人と出会う旅もよい」と阿部さん
 創業者一族の5代目である。「会社を潰すまいと必死でした」と阿部さん。帰省して実業界に飛び込んだ16年間の苦節を青森市本町の阿部重組本社で聞いた。
 東北新幹線が青森市街地へ迫り、速度を落とす。車窓から北の陸奥湾方向を望むと、スモークグレーの三角形のビルが目に入る。青森県観光物産館「アスパム」(地上51メートル、完成1986年)。やがて列車は新青森駅(同2010年)へ。この駅舎やアスパム、それに青森空港旅客ターミナルビル(同1987年)など“県の顔”的な施設工事に阿部重組は大手ゼネコンとのJVで関わった。地元建設業界の老舗だ。
 創業は明治45(1912)年。阿部さんは2001年10月就任した。4代目社長の父・利治氏がその前月、急性心不全のため社内で倒れ、57歳の若さで帰らぬ人となったためだ。「長男ですが、継ぐ気はなかった」(阿部さん)。しかし、祖父(3代目社長)に「おじいちゃんを助けるつもりで」と口説かれれば弱い。ときに28歳。
 青森市で生まれた。図工・美術やものづくりが好きで、公立進学校を1992年に卒業、仙台市で1浪生活を送った。ある日、受験熱をパッタリ失い、翌年には都内にアパートを借りフリーターへ。怒る父とは絶縁状態になり、母からの内緒の仕送りにバイト代を足して1年9カ月間ほどマイペースの日々を送った。
 世の中はそのころ一つの節目にあったようだ。社会党を核にした村山富市内閣の誕生や『同情するならカネをくれ』が流行語になったのは94年。
 翌95年には阪神・淡路大震災(1月)やオウム真理教地下鉄サリン事件(3月・東京)だ。漠たる不安から21歳の阿部さんは“学び直し”を決意。「建築をやろう」と試験科目や日程から選んだのが本学工学部第二部建築学科だった。先祖のDNAが騒いだのか。
 夜の教室に集まる会社から直行背広組や大卒資格を目指すヤンキーたち。授業のあと、「飲みに行こう!」の声も飛ぶ。仕事のグチをこぼす人、説教好きな年長者とさまざま。「面白かった」。人間観察の場でもあった。
 津田沼キャンパスに近いアパートを借り、昼はバイト、一方でヘビメタ同好会に加わり、ギターで絶叫した。
 建築の楽しさに開眼した阿部さんは、よき指導教官をえて“特訓”のすえ大学院入試にパス。当代の人気建築家を学内に招いてフォーラムを開き、長野県で山林保存の合宿をしたりと学生気分を満喫したという。わが国初期の鉄筋住宅「同潤会アパート」の歴史や設計をテーマに研究をまとめ、2年間の院生活を修了。友人3人と大学近くでデザインスタジオを共同創業して半年ほどたったとき受けたのが父の訃報であった。
 「その年のお盆に帰省し、父に仕事を聞かれ、『設計だよ』と答えた。『続ければいい』。覚えている父の最後の言葉でした」
 さて、社長になったものの、周りに年下はほとんどいない。経理など一から教えてもらい、得意先へのあいさつでは100枚の名刺が消える日も。「初めの1年はおじぎのしっ放しで、コルセットをはめるほど腰が痛くなった」。なかには「10年かけ半人前になるつもりで頑張りなさい」と親切な助言もあり、設計以外の建築専門書を貪り読んだ。
  「でも不採算の土木部門(道路敷設など)をなくす決断は辛かった」
 全国の建設投資額はいま年間約48兆円、最盛期の6割ほど。とくに引き継いだ2001年は激減し、「景気のよい時期をまったく知らないんです」。それでも努力を重ね、リフォームなど“建築物の医師”をキーワードに「独自の利益体質を築きたい」と阿部さん。従業員34人、売上高30億円。人生万事塞翁が馬と心得つつ、「生き残るには大手にはいない能力を持つ社員を育てるしかない」と前を見据える。
 「自戒を込めて言えば、ともかく学ぶこと。専門領域はもちろん、人文系の哲学や思想についての知は社会へ出て意外に効いてきます。学内の他分野との交流、人と出会う旅もよい」。現役学生に対する盛りだくさんの注文だ。妻と息子の3人家族。