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2015.6.15

名誉教授に3氏

武石 洋征氏 山本 明氏 西林 賢武氏
武石 洋征氏 山本 明氏 西林 賢武氏
 本学で長年、教鞭をとり学術の向上に寄与した3氏に、4月27日付で千葉工業大学名誉教授の称号が授与された。
 名誉教授となったのは元機械サイエンス学科教授の武石洋征氏、建築都市環境学科教授の山本明氏、工学部教育センター教授の西林賢武氏。

「千葉工大 躍進」を実感


■27年度同窓会総会開く
 同窓会の平成27年度通常総会と懇親会が5月23日、津田沼校舎で開かれ、最近の本学の躍進ぶりを報告する小宮一仁学長、瀬戸熊修理事長のあいさつに先輩たちは改めて母校の発展を実感。会は例年以上の盛り上がりを見せていた。
 通常総会は4号館431教室で開かれた。冒頭のあいさつで坂本洋会長(昭和45年土木卒)は「同窓会は今年度、設立68周年を迎え、会員数は8万100人となったが、うち約4万6000人が平成に入ってからの卒業生。同窓会の次の時代を担っていくこの人たちに、同窓会活動への参加を積極的に呼びかけていただきたい」と訴えた。
 また、同会長は来年度に予定されている工学部の改編に対応して、学科ごとに選任している学外評議員の定数のあり方と同窓会設立70周年の記念行事について、それぞれワーキンググループを設けて検討していく方針を明らかにした。
 続いてあいさつに立った小宮学長は「本学は今年春の入学試験では過去最多を大きく更新する志願者を集めることができた。加えて東京理科大(II部除く)を抜いて、志願者数で理工系大学のトップに立った。偏差値も徐々に上がってきており、全国からの入学者と女子学生が増えていることも、大学のレベルが上がっていることを示している」と報告した。
 総会はこの後、26年度事業報告・収支決算、役員の承認、27年度事業計画・収支予算を全会一致で承認。坂本会長の再選が正式に決まった。
 懇親会は会場を1号館20階ラウンジに移して開かれた。
 この席で瀬戸熊理事長は「この10数年、大学としてのブランド力を上げるために一生懸命に頑張ってきたが、最近、やっと花が開いてきた」として、未来ロボット技術研究センター、惑星探査研究センターに次いで、この4月に「人工知能・ソフトウエア技術研究センター」を設立し“3本の矢”がそろったこと、東京スカイツリータウンキャンパスも開設から丸3年を迎え、来場者が43万5000人(5月22日現在)を突破したことなどを披歴した。
 そして、「本学は5月15日で創立73周年を迎えたが、全国の大学は今、18歳人口の急激な減少という難題に直面している。その中で本学は創立100周年を目指してさらに前向きな施策をどんどん打ち出していきます」と決意を語った。
 この後、坂本会長、瀬戸熊理事長、小宮学長、交代した4人の新支部長を代表して小野寺康宮城県支部長、学生を代表して木村孝一学友会会長の5人で鏡開きをし、宮川博光常務の発声で全員が乾杯。
 同窓会に関わる企業などからの豪華な景品を引き当てる抽選会では、当選番号が読み上げられるたびに会場は大きな歓声に包まれた。会長賞の有田焼青磁の壺は広島県から参加した菅原泰治さん(昭和52年工経卒)が射止めた。
 懇親会には中川勇人文化会会長と鈴木博瑛体育会会長も参加。中締めの前には應援團(鈴木海渡団長)のエールに合わせて出席者全員で校歌を斉唱。先輩たちは学生時代の思い出に浸っていた。
懇親会で理事長らが鏡開き 青磁の壺を当てた菅原さん(右)
懇親会で理事長らが鏡開き 青磁の壺を当てた菅原さん(右)
同窓会総会であいさつする小宮学長
同窓会総会であいさつする小宮学長

活躍する校友


異色 新聞社で役員
一期一会、悔いなく
西日本新聞社執行役員(広告局長)
山下 利一郎(やましたりいちろう)氏(55歳)
(昭和57年、工業経営学科卒)
「母校の研究開発は誇り」と話す山下さん
 学生時代に培った人間力と卒業研究の知識をフル活用し、いま西日本新聞(本社・福岡市)の広告局長(執行役員)として営業の第一線に立つ。山下利一郎さんの歩みは異色の本学OBといってよかろう。
 生まれ育った福岡県は中国大陸への窓口。開放的、派手好き、陽気な県民性といわれる。「仕事上でやりがいはあるけど人や車が多く、地価も高い東京は永住の地としてはどうも……。福岡はちょうどよい」。出ても戻るのはここと決めていたという。
 剣道で県立高校時代を過ごし、腕前は2段だ。大学は東京で、と本学へ。JR総武線小岩駅に近い下宿から通った。ただし、剣道を続けるより学生生活を謳歌しようとフォークソング研究会へ。もともと音楽好きで、なかでもギタリストはカッコいい、と。
 ところが、約50人いたメンバーは男ばかり。勢い、遠くない女子大の同じサークルと合同練習したり、大学祭での演奏会など楽しい時間を送った。
 新たに取り組んだのが九州では縁遠かったスキー。当時、若者の間でスキーツアーは一大ブームだった。札幌オリンピック(1972年)が契機といわれる。深夜バスを連ねてリゾート地へ群がった。山下さんはここでもカッコよさを追及。練習を重ねツアー添乗員のバイトをこなすほど技量を上げた。卒業後もスキー場通いを続けインストラクター免許も取った。器用なのだろう。
 青春という時計の針の回転は早い。4年後、ふるさとへ戻ろうにも地方では就職門戸は狭い。思い浮かぶのは地元の銀行、百貨店だが、場違いな感じがし、西日本新聞社に出願。全国紙、ローカル紙を含め九州一の部数を誇る伝統紙だ。
 「卒業研究のテーマは『クレペリン検査の自動判定システム』だったんですよ」。一定時間内の1桁数の計算結果(正答率)から性格・行動面の特徴を判断する、あの心理検査だ。「回答数は初め(初期努力)は高くてもだんだん下降するが、終わり(終末努力)は再度上がらなきゃいけない。そのコツを知っていたぶん、入社試験はうまくいきました」と33年前を思い出して笑いながら、理想的な検査カーブを描いてくれた。
 実はこの時分、新聞業界はコンピューター組版システム(CTS)導入の渦中にあった。新聞製作の新時代。クレペリン検査もさることながら、コンピューター言語の知識を買われたのだろう。
 卒業式をすませ、入社するとシステム開発部へ。そこで広告局を担当した。広告は記事とともに紙面をつくる大切な要素だ。経営も支える。日々変化するニュースの量に応じ、段数や割り付け位置は微妙に動く。「売上計算などを含め、電算処理プログラミングづくりは結構きつかった」と振り返る。
 7年目。その仕事を若手へ引き継ぎ、広告局本体へ異動した。クライアント(広告主)や広告会社回り。大まかな業務の流れはすでに頭の中にあるとはいえ、持ち前の明るさで切り替えはスムーズだったようだ。福岡とびうめ国体(1990年)のプロジェクトをクリア、東京勤務(94〜2000年)や広告部長職などをはさんで2年前に現ポジションに。局員60人、うち10人いる東京支社へ月1回は出向く。
 「昔だったら、ど〜んと紙面を飾れば広告効果があった。現在はテレビ、インターネットなどメディアは多様化、新聞離れの若者層に対する媒体力は後退している。その中で広告という視点から優れた生活情報を読者へ提供できるか、地域のためになっているかを念頭に、訴求力ある広告づくりにクライアントとともに知恵を絞っています」
 クジラに発信機を付けて追跡し、被災地で活躍するロボット技術などで注目される本学に、「このような研究や開発をしていることを誇りに思う。日本に、世界に貢献できることを独自の観点でどんどんやってほしい」と期待を込めた。
 好きな言葉は「一期一会」。仕事も遊びも悔いなく取り組み、たまのゴルフで気分転換を図る。家族は薬剤師の奥さんと二女。