2006.10.15

3面

活躍する校友

バルセロナで創作35年 安らぎの空間目指す作品作りに意欲
来年1月、山梨県立美術館で集大成を披露

画家・彫刻家
山本 正文氏(59)
(昭和45年 建築学科卒業)

山本 正文氏
「美しいもの、安らぎのあるもの…」と山本さん

 「花が好きなんです。高山植物の傍にねころんで、それをじっと見ている、とても居心地のいい空間――」
 山本さんはスペイン・バルセロナ在住の銅版画家。目指す作品は、人々にそんな安らぎを与えてくれるのだろう。優しく幾重にも重なる色彩の微妙な美しさは、内外から高く評価されている。このほど来年1月の個展準備のために一時帰国した。

日本在住画家より日本的

 山本さんは「意識して制作しているわけではない」と言うが、その作品はスペインでは日本を強く感じさせると言われている。美術評論家・瀬木慎一さんは山本作品を「幽玄」と評す。また、山梨県立美術館学芸課長・向山富士雄さんは「日本が色濃く出ている。遠い異国で知らず知らずのうちに日本を探していたのではないでしょうか」と話している。
 「自分ひとりでは恐らく何もないですよ。若いときに出会った日本の人たち、故郷の色合い、それにパチンコ台の色まで私の中に重なっているのでしょう」。ご本人はそう言う。
 山本さんは、水墨画のようなジョアン・エルナンデス・ピジュアン、色彩豊かなラフォルス・カサマダという正反対の作家に影響を受けたという。10年ほど前の帰国時に日本人画家の作品に触れる機会があったが、テクニックの細かさと西欧風の作風に自分とは違う≠ニ思ったそうだ。
 1947年(昭和22年)山梨県櫛形町(現南アルプス市)生まれ。70年に千葉工大建築学科を卒業してパリへ…。
 「就職、就職と言われるのが嫌だったから。画家になることなど全く考えていなかった。フランス語学校がルーブル美術館のパスをくれたので通いましたよ」
 「パリでバルセロナの版画家に出会った。これが大きなきっかけになりました。エッチングの人でしたが、わたしはそれがどんなものか知らなかった。翌年バルセロナに移りました。日本人慣れしていない町だったこと、それにワインがうんと安かった!」
 バルセロナ――スペインの中でも独特な文化を持つカタロニアの中心で、ピカソ、ミロ、ダリそしてガウディなどの芸術家と深い関わりを持つ都市だ。
 地元の工房で働き始め、作家たちの作品を刷って生計を立てた。当然版画家と知り合う。自ら制作を始め、やがて工房を持つ。そこに当地の美術界を代表する作家たちが次々に訪れ、版画のテクニックや表現感覚を磨く機会を得た。
 「わたしは外交力ゼロですから、自分を売り込むことなどできない。しゃべるのも得意じゃないので、すべてを目で吸収しました」
 88年、マドリードのサン・フェルナンド王立美術院版画美術館で版画工房展を開催した。以来、山本さんの工房は現代版画の基地として注目されている。各地で作品を発表、92年のメキシコ国立版画美術館での大規模な回顧展では独自の世界が評判を呼んだ。

建築学科と版画と恩師と

 「私の学生時代ですか、熱心とは言えなかったなあ。建築学科を選んだのも、ケンチクカという響きが良かったからです」
 当時の恩師で前学長である宇野英隆常任理事は、山本さんの現在に建築は大いに影響しており、それは彼が建築の根幹を学んだからだと言う。
 ミシェル・ビュトールら多くの詩人たちとのコラボレーション詩画集が評判だ。“詩人は月、私はスッポン”と謙遜するが、詩人が山本作品に触発され詩を付ける。
 山本さんはデッサンをしない。「まず線を一本引く」「デッサンをしておけば無駄は出ないでしょう。でも私は無駄も利用してしまう。作りながら引っ張り出すのです、自分が感じる美しいものや安らぎのあるものを…」
 来年1月20日から2月25日まで山梨県立美術館で開かれる「バルセロナ35年の軌跡・山本正文の世界」展は、版画、彫刻、詩画集を集めたひとつの集大成である。


技術士制度解説シリーズ-No.7-

千葉工業大学 技術士会
広報委員会
技術士一次試験合格体験記(2)

 前回に続き技術士一次試験に挑戦し、見事合格した卒業生の合格体験記を紹介します。


平成7年建設部門合格
 渋谷 よりくに

1. はじめに
『技術士補登録だけでも多くの大きな「メリット」が生まれる』

 40年間生活した中で得た取るに足らない私的経験値ですが、専門家の集団に参加し続ける継続の「メリット」を在学生諸君に伝えたくてまとめたものです。
2. 挑戦を続ける
「貴方の人生」への応援歌

 この文を在学生の皆さんに先行事例として読み解いていただいて、読者が容易に技術士受験への流れを理解・整理され、素直にその「流れに乗る」(自然の法則に従う)ことを期待しています。また、自然の法則に従う事自体に、諸君が考えてみた事も無い大きな「メリット」が在る事に気付いてください。
 参考例として、内務省技監で在った青山士氏の生涯…疫病の待つパナマのジャングル(スエズ運河を開いたレセップスさえ疫病に勝てず撤退したこの世の地獄)の中で運河の開削に身を挺して世の為、人の為に働いた人物の実録を挙げます。(是非読んで下さい。人生の灯台に成ります)
 その、実録から私が学んだ事は、世の為、人の為に蛮勇を奮うその「時」がその人の生涯の宝であり、同時に「幸い」そのものとさとった次第でした。
3. 自然の流れるに乗る
 平成13年の改正技術士法で「技術士は高度の専門知識と共に応用能力に精通している技術者である」と言われている様に、専門分野から他の分野への貢献能力も求められます。
 異業種間の業際には技術士が貢献すべき分野が多くあります。その業際で活躍されている専門家にアタックし、仲間に加えて貰うにもまずは、「補」になる事です。活躍範囲が広がれば実用化技術も身に付き、より広い分野への応用能力が育ちます。自然に技術士への道を歩む事になると思います。また、その過程で得られる「メリット」は楽しい物ばかりです。
4. 第一次試験をなぜ受けたか
 私は50歳で技術士補になりました。母校・千葉工大の習志野台地を離れて、信州の山で暮らして28年後です。その間、主に山岳土木工事で経験を積重ねてきましたし、難工事の施工も多くこなし、空手部生活で練習していた第六感を鍛えてあげて、漸く、山岳土木分野ならどの様な現場施工でもこなせると自負できる頃でした。が、しかし、「何か」が不足している事にも気付きつつ日常業務に追われる現場生活でもありました。
 この、何かを現実化する旅の始まりが第一次試験の挑戦でした。これまでの現場経験で、2回目で運良く合格でき技術士補を登録できましたが、旅はまだまだ続いています。もっと社会に貢献するには第二次試験受験も大事なことですが、「縁」に乗って生きている現在とちがって、40歳ころと若かったので、天から次々に問題が与えられその解決に没頭できた毎日でした。しかし、「何か」が不足している感じは相変わらず消えませんでした。経験的マニュアルによる解決だけでは単なる知識の集積になり(科学技術創造に役立とは思えない)、世の為、人の為の活きた知恵ではないと、心のどこかで思い続けていました。
 「なぜそうなるの?」私の好奇心を上手く満たしてくれる知恵が無かったからです。もう一度、基礎からのやり直しが必要だったのです。それも出来る限り幅広く、かつ、土木工学以外の面からの解釈も合わせて出来る、現実的知恵が不足していたからです。
 在学生諸君も先生の隠している実力(社会に出てから先生の本物の実力に気付きびっくりすることが多い)を遠慮なく盗み(この盗みだけは許される。他の盗みは厳禁)今、目指している専門とする分野以外の物理、数学、機械、電気及び生物関係等の他面から理解度を増す鍛錬をお勧めします。
 「時」が経てば強大なエネルギー源となることを確信しているからです。
5. 技術士補で授かった具体的メリット
 物理、電気、生理学や数学等多面的に専門家に鍛えられたお蔭で、応用能力はつきました。トンネル工事ではダイナマイト爆発によって発生する衝撃波のエネルギー(疎密波と剪段波の破壊エネルギー)を研究し、岩盤をガラスを切る(一種の脆性破壊)様に切る技術を理論化しました。
 この理論と物体間の衝突エネルギーを組合せて、電気工学で使われている連成振動エネルギーで土砂を効率良く運ぶシステム(密度7600kg/m3の鉄塊を浮遊状態で運搬できる)を産官学で共同開発しました。(国交省との産官学特許は日本初、また日本国国有特許で一部は米国、中国等にも登録している)
6. おわりに
 今まさに、これからの技術(自然・環境との調和)で社会貢献を目指そうとされている在学生諸君にとって、受験へのモチベーションや継続のエネルギーとなる事、及び「大義名分に生きる技術者:習志野魂の本分」を目指して、飽きることなく努力を続ける習志野同窓生が多くなれば幸いと思います。
 在学生諸君の技術者人生が「メリット」の多い人生であることを願っております。
 「縁」があったらまた逢いましょう。

【土木工学科 昭和42年卒業】
問い合わせ先:千葉工業大学 技術士会事務局長:南澤 守
(携帯)090-8815-2504 e-mail:pe39962minami@d3.dion.ne.jp


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