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2009.9.15

ホーム→電車へ移動支援 さいたま市


中嶋研究室が実演 自律移動ロボット
車両から駅のホームに移る自律移動ロボット
車両から駅のホームに移る自律移動ロボット
 7月10日、さいたま市北区日進の「JR東日本研究開発センター」は朝早くから大勢の訪問者で賑わった。JR東日本が開催した「研究開発成果発表会2009」で、多くの発表講演、展示、実演が行われた。
 会場入り口近くのスペースで人目を引いていたのは、自律移動ロボットが駅のホームから車両に移る実演。本学未来ロボティクス学科の中嶋秀朗研究室がJR東日本研究開発センターフロンティアサービス研究所から委託された「駅構内における移動支援ロボットの研究」発表デモだ。
 いすの姿勢を水平に保ったまま不整地を移動、段差や隙間をまたいで越えるロボットが、安全にゆっくりと電車に乗り込むシーンを披露した。
 日本では、バリアフリー化の進行で車いす利用者の行動範囲が広がると同時に、高齢化社会の影響もあって、鉄道でも車いす利用者が増えている。現在は列車への乗降に駅係員の補助が必要だが、労働力不足などから、人のサポートなしに移動・乗降ができる環境が求められている。
 中嶋研究室では、千葉市科学館で今も活躍している常設実演ロボットなど、社会への応用を目指す研究・開発を行ってきた。JRとの研究ではコスト面も重視、「実際に使われる移動型ロボット」を目指して、シンプルさを追求した。
 今後は、車いすが駅舎の外からコンコースに入り自動改札へ、そこからホームへ移動して電車に乗り、目的駅に到着。さらに改札から駅の外へという全行程の自律走行をカバーすることが期待される。
 中嶋准教授は、車いす利用者が現在位置や推奨経路、乗換駅など鉄道固有の情報を無線でいつでも受信できるようにしたいと語っている。
 今回の成果は、中嶋准教授を中心に研究室の学生(主なメンバーは家富和寿君、飯田淑仁君、尾崎奨君=以上4年、近藤拓真君、田中達也君=以上3年)が連日連夜準備を行った賜物。本学の建学の精神「師弟同行」の実践で、学生たちの大きな成長につながった。
 家富君は「自律移動ロボットは移動弱者の支援ツールの側面とロボット社会への第一歩という二つの貢献ができると思う。今後は実用段階を意識した研究開発の基礎を固めていきたい」と言っている。
 なお、この研究開発の関連内容は、今年10月に米ミズーリ州で開かれるIROS(知能ロボットとシステムに関する国際会議)で発表する。

工業系高校と教育連携


中嶋准教授が講師に ロボット製作
ロボット製作を説明する中嶋准教授(左)
ロボット製作を説明する中嶋准教授(左)
 千葉県内の工業系高校と大学との教育連携事業の一環として、7月〜10月にかけて4回、本学津田沼、芝園両校舎を会場に「ロボット製作から学ぶものづくり講座」が実施され、本学未来ロボティクス学科の中嶋秀朗准教授が講師を務めた。
 今回の講座は、文部科学省のSPP(サイエンス・パートナーシップ・プロジェクト支援事業)にも採択されたもので、工業系高校と大学が専門教育で交流(高大連携)、生徒の科学技術等に関する興味・関心と知的探究心を一層高めるのが狙い。
 今回の講座には、千葉県内の工業系高校10校から教員、生徒約30人が参加。「2足歩行型ロボット」製作など、近年のロボット技術開発の現状について熱心に学んだ。
 連続講座の第1回は7月23日に行われ、ロボット一般についての説明、最新のロボット研究例、中嶋研究室での研究紹介、研究ロボットの実演などが行われた。第2回(9月8日)は、マイコン制御の観点から、コンピュータープログラミング、簡単なマイコン制御など、マイコンの使い方を学んだ。講座は10月にも2回予定され、第3回は「センサを使っての制御について」、第4回は成果発表会で、各グループが講座を通じて開発したロボットを使った簡単な競技会や、競技会を行ったうえでの課題や今後の目標などを生徒らが議論、検討することにしている。

活躍する校友


ひらめきで商品開発
大ヒット「富士登山記念印」が誕生
全国観光土産品企画卸印章・アクセサリー販売(株)
「藤二誠」代表取締役会長
小澤 誠(おざわ まこと)氏(67歳)
(昭和39年 工業化学科卒業)
小澤 誠氏
「人生、まったく面白い」と小澤さん
 フィギュアスケートの猛練習で痛めた足は、横になるとズキズキ痛んだ。「なに、揉めば治るさ」という荒療治が災いした。眠れない。東京オリンピックの昭和39年。22歳。窓外の富士山は月明かりに照らされ、煌々と輝く。顔をゆがめながら眺めていると、ひらめきは突然、山頂から降ってきた。「そうだ。これだ」。大ヒットの土産品「富士登山記念印」の誕生だった。
 その年4月1日、未舗装だった五合目まで約30キロの悪路が、富士スバルラインとして華々しく開通したばかり。五合目の土産物店で、350円の富士登山記念印はまさに飛ぶように売れた。印鑑とキーホルダーを合体した業界初の発想も、子供たちから「おじちゃん、キーホルダーにくっつけて」とせがまれたのがヒント。アイデア勝負の新商品開発。6年後の昭和45年、「藤ニ誠」創業への序曲は始まった。
 甲府一高時代、自分の進む道が判然としないまま、昆虫や写真の趣味に没頭した。その頃から甲府からはなぜか、東京を飛び越えて千葉の風景がよく見えた。「カレッジで一番になりたい」。数学、化学が好きだった。千葉工大に進学を決めた。「鶏口となるも牛後となるなかれ」との思いから、やせた体形もあって、何よりも「目立つ」から、誰も取り組まない男子フィギュアスケートのトップを目指した。スケート部を作って白樺湖合宿にも打ち込んだ。
 津田沼を朝5時に出て、学校ではなく、定期券で池袋・東武デパート屋上のリンクへ。ひたすら回転ジャンプの練習。3回転半の今と違って、1回転半の技で拍手喝采だった。国体出場を理由に教育実習を免除され、教員免許を取る。卒業後会社勤めを経て5年間、県立谷村高、機山高で化学の先生に。富士登山記念印を思いついたのは、富士北東部の山梨県都留市に住んだ谷村高校教員時代。この時、人生を決めたもう一つの出会いがあった。
 今では教員のアルバイトは厳しく禁止されているが、その当時はおおらかな時代で夏休みのアルバイトにダイヤなどの宝石を県内で売って歩いた。人柄が好かれ、販売実績は好調だった。中学生40人ほどを集め、夜間、二部制の学習塾も主宰した。教員の月給2万円、25歳の時である。50万円の日産スカイラインの新車を購入出来た。才覚が花開いた。
 霊峰・富士に見守られ、縁は育った。アルバイトの宝石を貸してくれた印鑑商は借家の塾の隣家。「婿取り」の商家なのに、その娘、3歳下の良子さんと結婚。良子さんの旧姓「藤森」の「藤」とイコールの「=」、自分の名前「誠」をつなげた「藤二誠」。夫婦2人きりの会社。『夢』を社訓に掲げ、レール網は着実に拡大して行く。
 今、「藤二誠」は全国観光土産品の民芸品(非食品)分野を独走するガリバー企業だ。各地の高速道路サービスエリア、温泉地、イベント会場で、販売される多種多用な商品に「藤二誠」のブランド名はないものの、必ず誰もが手にしている。年商52億円。印鑑キーホルダーは年間100万個を売り尽くす。愛・地球博覧会(愛知万博・2005年)では期間中、商品300種、200万個が出て、10億円を売り上げた。
 ディズニーやハローキティなどと提携したキャラクター商品も根強い人気を維持する。「業界のトップになったのも、あの、富士登山記念印の思いつきがきっかけ。それも、スケートのケガが発端。人生、何が幸運を呼ぶか、まったく面白いですね」「しっかり『竹(が育つ)のように』節の時と成長の時期を見据えて行きたい。沖縄への商圏拡大が当面の課題です」
 39年間、ひた走った社長業は今春、長女の婿、藤巻睦久氏にバトンタッチした。会長になって、少しだけ生まれた時間的余裕は週1回午前中休みを取ること。清流に分け入りヤマメを釣る、珍しい蝶を網で追う、地元の蛍を増やす会でも活動する。「昆虫少年」のやんちゃ顔が70歳を前にまた出始めた。「ヤマメは家で冷蔵の水槽で飼ってるんです」。破顔し、照れ笑う。