※本文中の役職等は取材当時のものです。

変幻自在のプラと 「生活英語が大変でした」

新入社員には「守破離」を語る
新入社員には「守破離」を語る

日精樹脂工業(株)テクニカルセンター所長

佐藤 琢磨(さとう たくま)さん

(昭和60年、機械工学科卒)

 有名なF1レーサーと同姓同名である。「ロンドンの免税店レジで店員に『安全運転を』と声をかけられました」と笑う。射出成形機では国内最大手メーカー、日精樹脂工業(本社・長野県坂城町)で技術と営業をつなぐテクニカルセンターの責任者(所長)になって5年。「今後も機械の需要は広がっていくでしょう」と意欲的だ。

 「これは面白い」

 終戦翌年の1946年。中国・旧満州から妻子とともに引き揚げた故・青木固氏は焼け野原の東京で飛行機の風防ガラス(アクリル樹脂)の破片を手にし直感した。熱するとグニャグニャ、でも冷やせば硬い。何か作れるのではないか、と。

 大学へ進む夢破れ、満州で工員として働きながら技術関係の本を多読した。その知識をベースに、ふるさと坂城町へ戻り、ニワトリ小屋を改造した工場で合成樹脂の加工や加工機械の開発に没頭。タバコケース、婦人用洋傘の握りなどを皮切りに改良を重ね、創業した日精樹脂工業は2017年、70周年を迎えた。立志伝中の人である。

 佐藤さんは坂城町の隣の上田市生まれ。自転車をばらし、組み立て直すといったモノいじりが好きなのと、「英語が苦手」ゆえ理系コースをチョイス。県立高を出て、本学へ。小4から中高と部活で続けた縁で剣道部(体育会)に入った。

 講義、道場、バイト……思いのほか忙しく、アパートから原付きバイクで10分のキャンパスへ毎日通ったという。体育会では執行部に加わり、献血呼びかけなどしている。1年目は詰め襟の学ランスタイルだった。

 「でも、勉強した感じはないんです。一歩下がるというより、一歩前、できたら一番前で何でも見、触れてみたがるタイプです」

 好奇心おう盛である。

 4年生の1984(昭和59)年夏には中国のハルビン工大などを訪れている。2週間の初の海外旅行。本学はいま18カ国・地域の38大学と大学間交流協定を結び、研究者や学生が往来しているが、その一環だ。「中国は大きい。いい体験でした」。

 しかも出発前、「就職先を決めてから行くぞ」と大学スタッフに気合をかけられ、故郷の日精樹脂工業を訪問。内定をもらい、リラックスしての旅だった。「もともと長野で働くと親に言っていたので」。車のギアの振動をテーマに卒業研究をまとめ、戻った。

 入社後の所属は一貫して“営業的技術畑”(現・システム技術課)と言ってよいだろう。

 営業マンに技術を伝え、ときに一緒にお得意先を回る。2017年8月、射出成形機(熱して溶かしたプラスチックを、圧力をかけながら筒の先から金型へ流し込み量産する)の国内外の累計販売台数は80カ国計13万台を突破したが、その修理サポートもこなす。一人三役だ。

 1990年から2006年まで、短期間の日本勤務をはさんで14年半、イギリス、ベルギー、アメリカに妻子連れで駐在した。当初、英語には往生したという。

 「ロンドンのファストフード店で『バニラシェイクを』と頼み、家へ持ち帰って飲んだら、なんとバナナシェイク!vanilla(バニラ)と言ったつもりが、banana(バナナ)に聞こえたらしい。技術的な会話はいけたのに、買い物など生活は大変。しっかり英語をやっておくべきでしたね」

 それでも長男はベルギーで無事出産。やはり、たくましいのだろう。

 文房具、注射器、おもちゃ、車の部品、ゴルフボール、スプーン……北陸新幹線上田駅から車で約20分、本社の一角にある資料館には、同社の成形機から生まれた製品が並ぶ。「電気自動車は軽量化し、樹脂のパーツは増えていくでしょう」と佐藤さん。2018年に50周年を迎えた射出成形技能士専門教育機関「日精スクール」も預かっている。

 新入社員に語る言葉がある。「守破離」(しゅはり)。「大学剣道部の同輩の高校時代の部訓だそうです」と前置きして説明してくれた。「教えを守り、しかし、他流試合でそれを超え(破り)、師から離れていく(自立)。技術者の独り立ちも同じです」。

 春夏秋の高校野球大会を球場で見物しながら気分転換をはかり、仕事にまい進する日々を過ごす。

NEWS CIT 2019年3月号より抜粋