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※本文中の役職等は取材当時のものです。
応援団元副団長の転身 仕事に「ノー」はない
「採用面接では想定外の質問を……」
春日井製菓株式会社取締役
村松 康弘(むらまつ やすひろ)氏
(昭和53年、工業化学科卒)
「工程はシンプル、しかし味は奥深い。それがお菓子の魅力です」。愛知県にある中堅菓子メーカー「春日井製菓」(本社・名古屋市)の生産本部長、村松さん=取締役=は訪れた春日井工場でそう話してくれた。応援団在籍の4年間に磨いた一徹精神で、「職人技に劣らぬ製造ラインを作りたい」と意欲満々である。
菓子を含む食品は、もともと農学部のフィールドといわれる。卒業研究で「触媒」という人体には“毒”となりかねないモノを扱った。有害物質とおよそ無縁な仕事に就くとは「夢にも思わなかった」と言う。
愛知県の県立高で合唱部(バス)を楽しみ、1974年、本学へ。卒業後はふるさとへと決めていた。ときに2次にわたる石油ショック(第1次=1973年、第2次=1978年)の最中。就活戦線は厳しく、4社あった地元の求人から消去法でいまの会社を選んだ。まさに人生は出会い。
サプライズは、入学早々からだった。バンカラで名をはせる千種寮へ荷を解いたのだが、北海道出身の寮友とともにキャンパスで誘われたのが応援団。「一緒にやろうぜ」と入部してしまった。草食系から肉食系へ生活が一変した感じだが、高校の友人たちは変身ぶりにびっくりしたという。漫画『嗚呼!! 花の応援団』が度外れた面白ギャグや人情話で人気を呼んだのもこの頃である。
「まるでそっくりな学ランの世界。厳格といわれた千種寮のしきたりの比じゃない。寮仲間は『夏までには音を上げてやめるよ』とうわさしていたが、卒業までもちました」と、元副団長は39年前を回想した。2年間で寮を出て、大学近くのアパートへ引っ越したが、もともと柔軟性や適応力があるのだろう。
とはいえ、飛び込んだお菓子の世界は、思ったほど甘くなかったようだ。エネルギー管理やボイラーの専門知識を求められ、本にかじりついた時期も。全国数万社といわれる業界のヒット商品レースのし烈さも驚きだったらしい。POSシステムで瞬時に売れ筋をつかむ時代だ。
地名ではなく、1928年に名古屋市内で起こした創業者の名を冠した春日井製菓のアイテム数は約330。つぶグミ、沖縄黒糖をブレンドした「黒あめ」のほか、「塩あめ」などが人気の東海地方の老舗だ。社員約500人(派遣社員を含む)。
「他社にくらべ、アイテムは少ない方でしょう。でも、この業界では一度作ってお仕舞いという新製品も珍しくない。コンビニでは毎日1袋売れないと、棚に並べてくれませんから」
製造からマーケティングまで幅広い業務の中で、一貫して技術畑を歩いて来た。主力の春日井工場長になった2007年、取締役に。現在は工場長の任は譲り、社長に次ぐNo.2の生産本部長として県内3工場全体に目を光らせる。
菓子づくりは、微妙な加減(時間・気温・湿度・圧力など)ゆえ、かつては職人技の領域だった。製造ラインの調整など、いまでもそうした側面は否めないが、「ラインをコンピューター管理化するとともに、出荷も管理できる受発注システムや自動倉庫を建設中」と村松さん。製造ラインをストップする週末に、その作業を進める。
社内では毎日クリーニングした白い作業服をすっぽりまとう。清潔第一のリスク管理。「だから社員同士、街ですれ違っても分からないことがあるんです」と苦笑した。
ストレスは、山野草ファンの奥さんを同行しての釣りで発散する。子どものころから釣り糸をたらしている。三河湾のハゼよし、岐阜県高山の渓流のイワナ、ヤマメよし。釣果はおいしく頂く。「ただし、奥さんが差し出すサオの針にエサをつけるのは私の役目」と楽しそうに笑った。
本学OBは、他に1人いた男性が〝家業引き継ぎ退社〟し目下、村松さんのみ。「外見はヤワでも、しっかりした学生はいる。採用面接では想定外の質問をし、窮地をどう切り抜けるかを見ます」。
仕事にはノーという返事はない――日々、この言葉を胸に最善策を探求しているという。
NEWS CIT 2016年9月号より抜粋