※本文中の役職等は取材当時のものです。

資源再生にかける 共に「柔軟思考」で

馬場さん(左)と吉成さん
馬場さん(左)と吉成さん

松田産業株式会社取締役(メンテナンス事業部長)

馬場 信明(ばば のぶあき)氏

昭和53年、金属工学科卒

松田産業株式会社法務部長

吉成  敦(よしなり あつし)氏

昭和54年、工業化学科卒

 いま本学OBは正社員だけで12人。循環社会型ビジネスを展開する松田産業株式会社(本社・東京)の総勢1175人の中で多いのか少ないのか見方は分かれるが、馬場信明さんと吉成敦さんは自らに引きつけながら、「大学で学んだことと違う畑を走ってきました」と明るい。新宿副都心にある本社で学生時代を語ってもらった。

 1970年代の津田沼キャンパス。金属工学科と工業化学科は1号館のそれぞれ1階と2階にあった。学バス発着所あたり。「でも一度もすれ違わなかったね」と、2人は顔を見合わせた。そんなこともあるだろう。

 長崎県島原市育ちの馬場さんは福岡市で受験し、現役で本学へ。3年間を千種寮で過ごした。一時テニス部に入ったものの、「寮生じゃあ続かんな」とあっさり退部させてくれたほどバンカラ集団の勇名はとどろいていた。風呂で先輩の背中流し、酒宴、集合、麻雀など“鉄の団結”はすごい。「3年前、6世代の寮生が集まって一杯やったら、昔仲良くなかった者同士、喧嘩してました。人は変わらんものです」と懐かしそうに笑う。

 一方、新潟市育ちの吉成さんは馬場さんより1年後輩だが同学年。1浪した関係だ。都内の兄(会社員)のアパートに4年間居候した。サークルには属さず、バイトや友だちと雀卓を囲むことが多かったらしい。「代返ありの雀荘直行も」。

 といっても、卒業研究なしで出してくれない。吉成さんはユニークで3年までに卒論以外の単位を全て取り、4年次の1年間は当時、渋谷区にあった通産省工業技術院東京工業試験所で過ごした。いま時代の先端をいく水素エネルギーについて自動車メーカーからの出向者らと並んで研究したという。結局、吉成さんは「金属水素化物(水素吸蔵合金)」、馬場さんは「複合材料に及ぼす温度勾配と成長速度」のテーマでパスした。

 折りしも世は石油ショック(第1次=73年、第2次=80年)のさなか。「田舎へ帰ろうかと一時悩んだ」(馬場さん)ほど就職難だった。

 書店で求めた求人雑誌から馬場さんが選んだのは「マツダ貴金属工業」。貴金属リサイクル部門として卒業と同じ78年に立ち上がったばかり。“宇宙船地球号”の省資源が叫ばれ、リサイクルは時代の言葉であった。

 その翌年、「公害処理のパイオニア マツダグループ」の見出しが踊る雑誌記事に目をとめた吉成さんも、写真定着液から臭化銀を回収したり産廃処理をする「マツダ化学」へ。このころグループ社員は270人ほど。

 これら同族会社のルーツは昭和10(1935)年創業の「松田商店」(東京・中野区)だ。基業である写真感材からの銀回収や廃酸処理など環境ビジネス(環境部門)、半導体工場などのスクラップからの貴金属回収製錬ビジネス(貴金属部門)、近くのマヨネーズ製造工場で不要になった卵白を、かまぼこ素材や印刷材料へつないだ再生発想が原点の食材供給ビジネス(食品部門)を3本柱に、80年の歴史を刻む。

 2人はほとんど営業畑を歩いてきた。「分析分野へ配属を希望したら、上司は『よし、分かった。キミは営業だ』ですからね」と吉成さんは苦笑する。名古屋、大阪、仙台の営業所や子会社の社長をへて2008年、法務部長に。馬場さんも新日本製鉄と共同出資の日鉄マイクロメタル(87年)の立ち上げ=現・日鉄住金マイクロメタル=に奔走するなど社外との付き合いが長い。取締役就任は2010年である。

 その苦労は実り、半導体・電子部品から装飾品まで用途の広がる貴金属製品を送り出す。ドイツ企業と合弁の産業廃棄物リサイクル「ゼロ・ジャパン」(98年)のほか、東南アジア各地に工場や事業所・支店を配し、東アジア№1の「リファイナー」(貴金属製錬業者)を目指す。高価な金に代わり、日鉄住金マイクロメタルで製造するパラジウムコート銅線(半導体素材)は世界シェアの6割を占める。

 目下、食品部門で卵の流通に汗を流す本学金属工学科の後輩もいる。「営業マン・ゼロでも売れる商品を作りたい。そのステップになれば」(馬場さん)と、2人の表情はどこかうれしそうである。

 これからどんな人材を求めますか? しばし考え、異口同音に言った。知識より性格、柔軟な考え方の持ち主、頭がいい割に勉強していない学生。なるほどなぁ。

NEWS CIT 2015年9月号より抜粋