※本文中の役職等は取材当時のものです。

「技術系」生かして
努力と忍耐 モットーに

「石の上にも3年。頑張ってほしい」と松本社長
「石の上にも3年。頑張ってほしい」と松本社長

白洋産業株式会社社長

松本 祐之(まつもと さちゆき)氏

(昭和44年、機械工学科卒)

 180センチを超える長身に温和な人柄。いささかも感じさせないが、苦労人である。ヨド物置といえば社名がピンとくる淀川製鋼所(本社・大阪市)を経て、同社の窓口商社である白洋産業(同=来年1月から「淀鋼商事株式会社」に社名変更予定)のトップとして舵取りを任されて4年。「この歳になって働いているのは私くらいなもの」と笑いながら、全国のお得意先回りに忙しい毎日だ。

 父は鳥取県で高校教師をしていた。付けてくれた名前(「さちゆき」)は、「きちんと読んでくれたのはこれまでお坊さんひとりだけ」(松本さん)というほど珍しい。進学校である県立倉吉東高の、普通科ではなく、腕に技術をと工業科を卒業した。これまたユニークである。同じ中国地方の岡山県倉敷市にある大手自動車メーカーの工場へすぐ就職した。

 が、現実の厚い壁にぶつかった。「同じ仕事(設計)をしても、大卒とは処遇が大きく違うんです」。3年目の春、進学を決意し、本学の門をくぐった。

 いささかの蓄えはあるものの、学費は親が出してくれたという。塾の試験監督などアルバイトもいろいろやった。千葉市内で1年間下宿生活ののち、そのころ西船橋にあった鳥取県人会の学生寮へ。松本さんら3人の本学学生など約50人の同郷人はにぎやかで、箱根へドライブに行くなどバラエティーに富んだ3年間だったようだ。

 「とくに思い出深いのは因幡の傘踊りです」。浴衣に手甲脚半、白鉢巻きに白たすき姿で、小さな鈴のついた傘をシャンシャン響かせながら回して踊る鳥取の民俗芸能である。学生寮の寮祭にあわせ、津田沼駅前で披露した。喝采を浴び、「楽しかったね」。

 熱力学の「細線の熱伝達」をテーマに卒業研究をまとめ就活戦線へ。東京オリンピック(1964年)や大阪万国博覧会(1970年)の特需もあり、まだ売り手市場だった。応募学生には交通費のほか、会社によっては日当さえ支給していた。夏休み、大学の紹介で大阪の淀川製鋼所(通称・ヨドコウ)を「里帰り気分で」受けたら内定をもらった。今からすれば夢のような話だ。

 ところが、入社間もなく、再び千葉県へUターン。カラー鋼板メーカーとして業界トップクラスの技術を誇る同社は大阪、呉(広島県)工場など西日本中心だったが、東日本の生産拠点として市川工場(市川市)を計画、前職での設計経験も見込まれ、その建設メンバーに加えられたのだ。寮、社宅のできるまで丸1年間は、独身者も妻帯者も本八幡の旅館に“缶詰め”状態でまい進した。

 「臨海部の埋め立て地なので地盤は軟らかく、建家や重い機械を支える基礎杭は45メートル以上、それも1000本近い。ゼロから始まった建設は若い時の貴重な経験で、いい勉強になりましたね」

 軌道に乗った頃、再び呉工場へ転勤し、国内勤務のあと、1996年から2年間、ヨドコウの台湾子会社(高雄市)へ役員として出向、技術指導などにあたった。目指すマーケットは中国、米国である。

 「通訳を付けると言われて現地へ着いたら、それは最初の1日だけ。ひどいよねぇ!」と苦笑い。赴任してから週2回、中国語レッスンへ通ったものの、直ちに役立つはずもなく、唯一の共通語である英語で、たどたどしいながら、仕事をこなした。「学生時代に英語くらいマスターしておくんだった」と悔いたという。

 2004年、ヨドコウグループの白洋産業へ移り、呉工場長や取締役を経て2010年、技術系初の社長に就任した。「努力と忍耐」をモットーに約150人の社員を引っ張り、鋼板や建材などのヨドコウ製品をユーザーの元へ届ける。「趣味の古寺・名刹めぐりは、しばらくお預けです」。

 では、若い社員について一言を。「近ごろは、気に染まない仕事だと、すぐ退社していく。“石の上にも3年”の気持ちで頑張ってほしい。それと外国語を使えるように」。

NEWS CIT 2014年11月号より抜粋