※本文中の役職等は取材当時のものです。

光触媒 実用化に成功 ピンチに負けぬ技術者魂

「自分をしっかりもって」と山本社長
「自分をしっかりもって」と山本社長

フジコー社長

山本 厚生(やまもと あつお)氏

(昭和39年、金属工学科卒)

 殺菌や消毒の効果など高い関心を集める光触媒技術。その実用化に成功した株式会社フジコー(本社・北九州市)の社長、山本厚生さんのモットーは「ほかに真似できないことをしよう」。この夏、津田沼キャンパスを訪れ、50年前を思い出しながら熱い開発マインドを語ってくれた。

 「昔は兵舎のような建物がいくつかあったくらいで、すごい変わり方ですよ」。山本さんは母校の変貌ぶりに目を見張る。

 父は全国各地の大手製鉄所構内で鋼塊鋳型の補修などを請け負うフジコーの創業者(当時社名は「富士工業所」)。そのひとつ八幡製鉄所(現・新日鉄)は千葉県君津市(君津製鉄所)へ進出を計画、それが正式決定した同じ1960年、「動きを見守りながら勉学を」と本学へ。「でも、あまり勉強しなかったなぁ」。

 高校時代は柔道に汗を流した。しかし講道館(東京)を見学し、これは歯が立たないと射撃部へ進路変更。エアライフルなどの競技だ。3年生のとき福岡県代表として国体に出るほど上達した。しかし、華やかさは今ひとつ。女性部員もいない。それではと、今度は氷のリンクを滑走する「スケート同好会」を立ち上げた。その一方で郵便物の仕分け、プリント配線の設計事務所などでアルバイトにも精を出した。

 そのころ、海岸線まで歩いて行けた。キャンパスに近い下宿の同宿人と潮干狩をし、そのアサリを味噌汁にしてもらったという。楽しい学生生活で磨いたのは「人間力」だ。

 卒業とともに親元へ。まず現場に入り、そのあと営業も。「製鉄所に現場を作ってこい」と命じられる。例えば川崎製鉄(現・JFEスチール)の水島製鉄所(岡山県倉敷市)へ日参し、秘書を介し所長への面会を取り付ける。初対面。「きょうはいい天気ですね」「何しに来たんだ、キミは」「仕事が欲しいのですが」。その熱意を買われ、さらに現場の責任者と話を進めていく。インゴットの修理コストを下げる独自技術もあって同製鉄所を含め各地に事業所を展開、ピーク時に社員は1500人になった。

 しかし、好事魔多し。第1次オイルショック(1973年)のころ、製鋼は連続鋳造ラインへ一変していく。インゴットの需要は落ち、人手は余り始めた。山本さんはその8年後に2代目社長に就くのだが、ほぼ半数をリストラせざるを得なかった。「勢いのある最も多忙なときこそ、事業は次に備えるべきだったのに怠った」と悔やむ。

 慎重に経営を維持する一方、創立50周年にあたる2001年、技術開発センターを開設。圧延仕上げロールのリサイクル化や超密着溶射技術(第1回ものづくり大賞、2005年、)を実現していった。とくに光触媒は注目を浴びる。

 二酸化チタン(光触媒)は光を受けると有機物を水と炭酸ガスに分解する。問題は素材への張り付け方。実験を重ね、超音速かつ800度で吹き付ければ可能と実証した。成功したとき、山本さんはスタッフとハグして喜び合ったという。博士号取得者を含め約40人いる研究スタッフの努力の成果だが、「溶接のフジコー」の面目躍如というところだ。

 消毒マスク、カビを防ぐ金魚の水槽、ある特定の香りだけ残す小物など「おそらく用途は無限。技術とは遠くの存在ではなく、身のまわりで役立つのが本来ですから」と山本さん。今春、北九州市に“光の魔法”による製品量産化に向けた新工場を完成させた。ストレスはスキーと料理で発散する。「和洋中なんでも作るけど、なかでも得意は麻婆豆腐。料理は熱管理ですから、金属工学と同じ」と周囲を笑わせる。

 一方、3・11東日本大震災の津波では仙台空港(宮城県)に近い仙台事業所の従業員4人を失った。

 「夢と計画性を持ち、人生意気に感ずべし」の気概を胸に、熱延大型圧延ロール、色素増感型太陽電池などの開発に精力を傾けているが、「明るく、個性豊かな、自分の思いや気力をしっかりもった人材が欲しい」と若手への期待は大きい。

NEWS CIT 2013年9月号より抜粋