※本文中の役職等は取材当時のものです。

広がる電気事業
ガキ大将タイプがほしい

「社員と裸まつりに」と語る松岡社長
「社員と裸まつりに」と語る松岡社長

旭電業(株)社長

松岡 徹 氏

(昭和49年、電気工学科卒)

 名刺の裏を見てオッと声を上げそうになった。日本3大奇祭のひとつ岡山・西大寺会陽(通称「裸まつり」、毎年2月)を描いた切り絵の中で、宝木を求めてまわし姿の男たちが練っているではないか。観光担当者並みの力の入れようだ。「ふるさとですし、毎年、社員と出てますから」と、電気設備工事会社「旭電業」(岡山市南区)2代目社長、松岡徹さんは表情をほころばせた。

 裸まつり会場の西大寺観音院近くで育ち、県立高をへて本学へ。船橋市内に下宿し、軟式テニス部で2年生までプレーした。中学時代に始め、キャリアは十分。ところが、「自分より下手なのに『上級生だから』と大会へ出場した」メンバー編成に釈然とせず、退部した。なかなかの鼻っ柱だったらしい。

 アルバイトをよくしたという。とくに父親が1950年に興した旭電業と同業の準大手・六興電気(東京)で、あたかも“見習い研修”のようにさまざまな現場へ出かけた。“カエルの子はカエル”という言葉が当てはまりそうだが、卒業して再び六興電気へ、今度は正式に入社。千葉大付属病院の電気工事に長い間携わった。

 「そろそろ岡山で仕事を覚えては」と父に言われ、長男として実家へ戻ったのは4年目、1977年のこと。原油供給事情の悪化による第1次(1973年、中東戦争)および第2次(1979年、イラン革命)にわたる石油ショックのはざまである。不況の時代だ。

 中東バーレーンでの港湾コンテナクレーンの電装工事を請け負ったのも、第2次ショックの原因となったホメイニ師によるイラン革命騒動真っ盛りの頃である。クレーンはモーター、レールなど大がかりな装置で、25人ほどの作業員と3カ月を過ごした。初の海外旅行。「さして利益にならず、中小企業にはきつかったが、楽しかったですね。イスラム諸国にあっても幸い禁酒国ではなかった。ただ毎日、熱帯魚のような魚が食卓に上り、閉口しました」。ビジネスに積極的だった。

 やがて父とぶつかっていく。その一因は、工事の“調整”。県電業協会の役員会社だった関係で、「うちに落札させて」といった要請が会員から舞い込む。断りにくい。「止めろと言っても聞かないので、親父に辞表を突きつけた」と松岡さん。仕方なく会合で「3日間フグ料理を食い続けた」こともあるという。いまになっては信じられないような話だ。1993年のゼネコン汚職事件を境に、こうしたやり方は影を潜め、会長職に退いた父の後を継ぎ97年、社長に就任した。

 電気は社会インフラである。まず止められない。逆に、瀬戸大橋など橋梁やトンネルの照明から、最近では建物や街の空間の演出まで、用途は広がっている。LED照明など新技術に伴って工事内容も変化している。旭電業が電気部門で加わった東京都美術館(2012年リニューアルオープン)の灯りはその一例だろう。社員約180人の中にCAD(computer aided design:コンピューター援用設計)担当は8人おり、「アメリカ研修に派遣している」(松岡さん)。さらに今春、県中部で3社ジョイントの大規模太陽光発電施設(メガソーラー、出力32メガワット)を着工、発電事業へ乗り出した。2年前の東京電力福島第一原発事故の余波だ。

 その一方、地元企業として毎年社員一丸となって裸まつりの宝木争奪戦に参加し、「私も水垢離します」と松岡さん。これには日銀など大手企業の支店長クラスらの組織する「岡山武蔵倶楽部」の一団も加わり、総勢500人に。倶楽部は地域活性化と岡山の魅力を全国発信しようと10年前結成した、いわば“岡山支援隊”だ。まわし姿で「わっしょい」「わっしょい」と境内を練る中年グループに見物人から拍手がわいた。

 「ゲンキな、デンキ人間集団」をモットーにした旭電業の本学OBはいま6人。「ガキ大将タイプに来てほしいですね」と松岡さんは期待する。現在、同窓会岡山県支部事務局長。

NEWS CIT 2013年5月号より抜粋