※本文中の役職等は取材当時のものです。

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「学生は少し生意気くらいがいい」と語る松本さん
「学生は少し生意気くらいがいい」と語る松本さん

(株)きしろ会長

松本 好雄(まつもと よしお)氏

(昭和37年3月、工業経営学科卒)

 戦艦「大和」の砲身を削った大型旋盤と競走馬たち。兵庫県明石市の鋳鍛鋼品加工メーカー「きしろ」会長、松本好雄さんは時代の先を鋭く読む、たぐいまれな多才の人である。

 瀬戸内海の鯛で有名な明石市で生まれ、高校まで過ごした。父は、戦前に船舶用エンジンの製造、戦後はディーゼルエンジンのクランクシャフトなどの切削加工へ転じた「きしろ」のオーナー。工場へ出入りし、自ずと理系に。本学ではクラブなどに属せず、マイペースで卒業まで6年を要した。「いまでも『試験の答案が書けへん』って夜うなされるんですわ」と笑う。

 卒業研究のテーマは、「自動車部品プレス加工工程の短縮」。千葉県内の工場へ通い、引率の教授や工場の経営者とマージャンで親交を深め、楽しい実習時間を送ったらしい。

 下宿のおやじさんがJRA(日本中央競馬会)の中山競馬場へ案内してくれたのは、卒業研究よりいくぶん前のこと。すごい観客で、さっぱり前は見えない。が、目をスタンドの上方へ。のどかに見物している一団がいる。馬主席である。「いつかあそこに座りたいもんや」と心に誓ったという。

 勝ち馬投票券は当たったり、外れたり。この頃のエピソード。下宿近くの銭湯に友人の分まで含め2万円近い風呂代、そしてパン屋にもほぼ同額のパン代をため込んだ。びっくりした母親が頭を下げつつ払って歩いたという。らい落な“坊ちゃん”であった。

 「帰って来い」との声で、卒業と同時に父のもとへ。間もなく本学での同級生を一人、「きしろ」へ誘った。既にリタイヤしているが、右腕として専務で活躍していた。

 造船業は海運の動向を敏感に映す。会社合併もまれではない。営業担当だった7年目。ある造船所のシャフト切削部門が合併騒ぎで発注元の神戸製鋼(神戸市)へ仕事を返上してきた。神戸製鋼はお得意先。松本さんは「じゃウチで」と全部引き受け、外から30人ほど職人を募り、機材もそろえ、3日間の徹夜で神戸製鋼へ納め、難を救った。「当時持っていた生産能力の5倍もあり、苦しかった。でも自信と信用につながりましたな」。

 33歳のとき父が急逝、2代目社長に。以後、技術力を生かし自動車部品などの樹脂製品の成形(明石化成工業)、技術営業(きしろ商事)、さらに園芸ショップ(ナイスグリーン)と事業を拡大していく。グループ社員は入社時の50人から350人へ増え、3年前に「きしろ」社長の椅子は長男へ引き継いだ。

 北海道で太陽光ビジネスにも乗り出しているが、主力はディーゼルエンジンのクランクシャフト加工。とくに10~30万トンの大型船舶分野では世界シェアの4割を誇る。1本の長さ20メートル以上、重さ約300トン、8万馬力。その製造に戦前、「大和」の砲身を削ったドイツ・ワグナー社の大型旋盤が播磨第1工場(兵庫県播磨町)で稼動中だ。戦後、呉海軍工廠(広島県呉市)から神戸製鋼へ民生用に払い下げられ、休止していたのを「優秀だから」と1996年に譲り受け、メンテナンスして使う。まさに重厚長大。

 さて馬への思いは捨てがたく、1974年にJRAへ馬主登録して以来、いまではレース待機馬ならびに予備軍を合わせて約300頭を所有する。中でもメイショウサムソン(メイショウは明石の「明」と苗字の「松」から)は、2006年から翌年にかけG1の皐月賞・東京優駿・天皇賞(春・秋)を勝ち、名をはせた。凱旋門賞(フランス・武豊騎手)は10着だったが、「いずれ優勝を」と夢は壮大だ。

 「馬は孫のようなもの」と目を細めつつ、松本さんは「学生は少し生意気くらいがいい」と若い力に期待する。内藤國雄との対局(飛車落ち・引き分け)、渓流釣り、ゴルフ(ハンディ8)、囲碁、草花など趣味は広い。昨年まで日本馬主連合会長。紺綬褒章(2007年)、旭日小綬章(2010年)を受けている。

NEWS CIT 2013年4月号より抜粋