※本文中の役職等は取材当時のものです。

サッカーで地域興し
大震災ハンディはねのけ

サッカーにかける夢を語る鈴木さん
サッカーにかける夢を語る鈴木さん

1級建築士、(有)鈴木設計社長

鈴木 勇人(すずき はやと)氏

(平成7年、建築学科卒)

 「福島の再生なくして日本の再生なし」。野田佳彦首相は昨年9月、就任会見で3・11東日本大震災の復興決意を表明した。間違いない。が、その刻苦を担うのは福島県民。本学建築学科OBで同県初のJリーグ参入を目指すサッカーチーム「福島ユナイテッドFC」代表の1級建築士、鈴木勇人さん=有限会社「鈴木設計」社長=は、そのフォワードにいるといっても過言ではあるまい。

 2011年3月11日午後2時46分。福島県出身である本学の古市徹雄教授(建築都市環境学科)と仕事の打ち合わせなどのため、東京・高田馬場あたりを走るタクシー車内にいた。「震度7、震源は福島県沖。大津波警報」。ラジオのニュースに驚き、近くにある同教授のオフィスへ駆け込んだ。

 「沿道のビルから人が外へ逃げ出し、道路はごった返し、携帯電話は不通。家族や社員の安否が確認できず、ボタンを押す指先が震えているんです」

 予約してあった都心のホテルで1泊し翌日、JR在来線でまず宇都宮駅へ。そこでレンタカーを借り、福島市の会社に着いたのは13日未明。社員6人のうち福島県浪江町など浜通りへ視察研修中の1人と、飯舘村の小学校改修のため屋上で調査をしていた1人も無事だった。「倒壊建物のがれきなどをどかしつつバス道を確保し、浪江から戻ったそうです」。その2日後、福島第一原発で水素爆発。断水やガソリン不足で1週間ほど休んだが、被災建物の応急危険度判定や復旧調査に「作業服を着たままの日々」が続いたという。

 福島市生まれ。小学生のころからサッカー少年である。父の建築事務所を継ぐか、プロを目指すか悩んだすえ本学へ。「専用のサッカーグラウンドをもつ強豪校だったし、建築も学べるから」。確かに強かった。鈴木さんが主将だった94年、関東理工系大学リーグ戦で全勝優勝。会議室での祝勝会でビールかけになり、臭いが部室棟に充満。「こっぴどく怒られました」。むろん始末書。懐かしそうに目を細めた。

 卒業設計は「地域に根ざしたサッカースタジアム」。強いチームを作って交流人口を増やし、地域活性化へというアイデアだ。実際、卒業と同時にふるさとへ戻り、福島国体(1995年)に出場。福島ユナイテッドFCの前身「FCペラーダ福島」で30歳までプレーしたが、構造家の父が他界し、建築の世界へ。

 余談をひとつ。2007年、父が構造設計したマンション屋上に携帯電話アンテナの設置工事があった。耐震強度を調べて愕然。建築基準値以下だった。「1件だけ、それも単純な誤入力。とはいえ住民対応や補強工事、マスコミ対応など信頼回復に追われました」。淡々とした口調に苦労の跡がにじむ。まさに艱難汝を玉にす。

 その後の努力のかいあって、福島市飯坂温泉地区の旧豪商邸の再生設計が日本建築士会連合会の2012年作品展で優秀賞(全国5点)に選ばれるまでになった。

 それにしてもサッカーへの夢はもだしがたいらしい。福島ユナイテッドFCのルーツは2005年に福島県リーグへ参入した社会人チームだが、名称や運営主体は変われど毎年赤字。2年前には緊急事態宣言をして県民へ支援を訴えた。そして鈴木さんら5人が発起人となって新たな運営会社を立ち上げた翌月、3・11に見舞われた。選手約30人のうち7人が放射能の影響で退団。解散か存続か。

 避難所へチームで炊き出し支援に行った。「南相馬市の小学生に質問されたんです。『ユナイテッドなくなっちゃうの』と。その子の目にあふれた涙を見て、『夢と希望は失うまい。クラブを続けよう』と震災3カ月後に代表を引き受けました」。ハンディをはねのけ、昨年は東北1部リーグ(J4)で初優勝、新人選手11人を迎えた復興元年の今年こそ、「心清事達」(心清らかにすれば事は達する)の思いで「JFL(J3)昇格を」と支援を呼びかけている。

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NEWS CIT 2012年9月号より抜粋