※本文中の役職等は取材当時のものです。

敢然 転身3度
映像メディアを率いて

「自分はなにをしたいのか、若い人は真剣に考えてほしい」と小里さん
「自分はなにをしたいのか、若い人は
真剣に考えてほしい」と小里さん

静岡第一テレビ社長

小里 広(こざとひろし)氏

(昭和44年、電気工学科卒業)

 人生はめぐり合い。静岡第一テレビ(本社・静岡市駿河区、愛称・だいいちテレビ)の社長、小里広さんは文字通り、そんな生き方をしてきた。サラリーマン、代議士秘書、報道記者と転身し昨年6月、いまの椅子へ。本学電気工学科の異色OBだ。「少数意見に真実あり」を信条に、ざっくばらんな人柄で映像メディアを率いている。

 静岡県掛川市で生まれた。数学・物理は苦手だったと本人はいう。それが理系に?

 「文系だと遊んで勉強しないのではと周りも心配したのと、そのころ故・川島正次郎氏が本学の理事長をしており、父も『そこがいい』と決めました」。川島氏といえば「政界は一寸先は闇」の名文句で知られる老練な元自民党副総裁。もうひとつはキャンパスの場所。「都心へ一直線で行ける。東京にあこがれていたんですね。高校の友人の下宿が都内にあって、よく泊まった」。製パン工場などでのバイト代が軍資金になった。

 千種寮とキャンパスに近い下宿で2年ずつを過ごした。「先輩が期末試験の傾向を教えてくれるんです。助かりましたよ」と笑う。まだ寮の周りにピーナツ畑が広がっていた。おにぎり持参で成田山から寮まで夜間踏破する「成田行脚」を2度やった。当時はまだ寮生だけのイベント。心のフィルムは45年前へ巻き戻り、思わず表情がなごむ。実験の多い「送電線コロナの劣化」をテーマに卒論をまとめ、OA機器の販売会社へ。

 ところが肌に合わず1年で辞めた。就職氷河期の現在では考えられないぜいたくだが、次に選んだのが元厚生大臣、故・神田博衆院議員(静岡1区)の公設秘書。地元の人から話があり、いずれふるさとへとの思いもあって敢然飛び込んだ。

 折りしも佐藤栄作政権の末期。首相官邸での「新聞記者は帰って」で有名な退陣会見(1972年)のテレビ画面に第一議員会館でクギ付けになり、間もなく火の手の上がる角福戦争(田中角栄氏と福田赳夫氏の佐藤後継争い)のさなかに永田町を走り回った。名前のあがった政治家はほとんど鬼籍に入っているが、いま収監中の鈴木宗男・元衆院議員は秘書仲間のひとりである。

 「信じるところに従って妥協せず、世の中のことを考えよと、多くの政治家に教えられました。真実は少数意見のなかにある、とも。持って生まれた動物的本能で進む政治家は、まるで化け物のように見えました。私にはとうてい真似できません」

 田舎に帰ってフツーの人間になろうと思ったのか、7年ほど勤めて公設第1秘書までなったキャリアを捨て、静岡県内の建築会社へ。その席の温まる間もあらばこそ、「テレビ局ができるらしいよ」という知人がいて、いまの会社へ履歴書を出した。経歴の珍しさも手伝って採用された。ときに31歳、3度目の転身。まさに幸運の人である。

 ここでもサプライズが待っていた。営業で入ったつもりが、振り出しは社会部。サツ回り(警察担当)である。「原稿やカメラの心得さえないのに」。むろん問答無用だ。そして、本放送開始10日目の1979年7月11日、東名日本坂トンネル火災事故(死傷者9人、173台焼失)に出くわす。日本における最大の道路トンネル火災。キャッチの早かった小里さんは焼津側出入り口から約200メートルを突入し、「息をのむような惨状に夢中でカメラを向けた」。映像は日テレ(NNN)系列で全国へ流れた。スクープである。さらに記者も巻き込まれた静岡駅前地下街爆発事故(死者15人・負傷223人、80年8月)、報道部長になってからは暴力団事務所撤去キャンペーン(86年)などで取材や指揮にあたった。営業など総務畑も経験した。

 目下の急務は7月24日に切り替わるテレビ電波の地上デジタル放送化。アナログ受像機は映らなくなる。「インターネットや携帯電話の普及でテレビメディアの存在は脅かされています。こんな時代にあって、自分はなにをしたいのか、なにをして生きたいのかを真剣に考える若い人を求めています。それには多くの人たち、とくに年配者と話せる人になってほしいですね」と経営トップの顔になった。

NEWS CIT 2011年5月号より抜粋