※本文中の役職等は取材当時のものです。

ブランド乳の礎築く
工業のノウハウで農協経営

「学生の皆さんは、一歩前に踏み出し“あきらめずにチャレンジ精神で”」と激励する石橋氏
「学生の皆さんは、一歩前に踏み出し
“あきらめずにチャレンジ精神で”」
と激励する石橋氏

浜中町農業協同組合長

石橋 榮紀(いしばし しげのり)氏

(昭和39年、工業経営学科卒業)

 JR茶内駅(厚岸郡浜中町)は、釧路駅から花咲線で東へ約1時間10分。駅南側にはラムサール条約に登録されている霧多布湿原が広がる。その反対の北側に、浜中町農協の事務所、生産資材やコンビニ、コープの店舗、給油所、研修牧場などがある。従業員は全部で120人。地元では一大就労拠点だ。

 そのひとつ、農協酪農技術センター(ラボ)で、石橋さんはデンマーク製の精密測定器を前に胸を張った。「町内1.5万ヘクタールの農地にホルスタイン2万3000頭が飼育されています。この器機なら土壌や牧草の質、それに乳質まで高精度に分析できます。どの牧場の牛が、どんな体調かさえ追跡可能(トレサビリティ)です。ここまで徹底しているのは全国の農協でもうちだけですよ」。そして工業のノウハウで農協経営にあたる異色の組合長は付け加えた。「大学で学んだことが農業で役立つとは予想しませんでした」。

 根室市生まれ。高校生活は釧路市で送った。祖父、父とつづく牧場を継ぐ気はなく、帯広畜産大(帯広市)に合格したものの、「これからは技術の時代」と本学へ。「といっても4年間はサッカーばかりでした」と笑う。サッカー部に初めて入り、ミッドフィルダーとして千葉県工科系リーグで優勝している。

 されど運命は測りがたし。4年生の夏、父が肝臓を悪くして倒れた。中3の弟に18頭の牛を任せられない。プラスティック成型の工程管理をテーマにした卒論を仕上げ、学生結婚の奥さんを伴い、卒業とともに太平洋に面した漁業と酪農の浜中町へ里帰り。

 「一生のうちで、この初めの2年間くらい勉強したことはありません」。農業改良普及センターへ足しげく通い、飼料、土、牛の病気などの本をむさぼり読んだ。牛舎内の動線や簿記管理、いかに経営ロスを減らすかの手法は、農業も工業も同じと気づいたという。

 第2の転機は1981年の41歳。浜中町農協の専務理事に就いた。専従である。いま長男夫婦が世話する親牛110頭、子牛200頭ほどではないが、かなりの飼育頭数にはなっていた。32歳で推されて役員にはなっていたが、「やりきれるかどうか迷いました」。奇しくもその年、雪印乳業茶内工場の閉鎖など、酪農は拡大路線から生産調整期へ。一方、産地間競争は激化の様相であった。

 「ここの牛は摩周湖の伏流水で成長している。やるからには日本一を」と、アメリカで酪農技術を見てきた若手の意見を入れて立ち上げたのが酪農技術センターだ。「よい生乳は健康な土、草、牛からしか生まれませんから」。

 品質管理の効果はすぐ現われた。82年、町へ進出したタカナシ乳業北海道工場で、脂肪分の高い浜中産生乳で「北海道4・0牛乳」を製造。これが同乳業躍進の礎を築いていく。さらに浜中産は「ハーゲンダッツ」(アイスクリーム)、「カルピス」の原料としてナショナルブランドの位置を得ていった。

 90年に組合長理事につき、過疎化と高齢化が進むなか、後継者づくりにも力を注ぐ。91年に全国初の就農者研修牧場を開き、4年前には有限会社化。シロウトを3年で一人前の酪農家に育て上げる。移住者は大阪、東京、名古屋など全国から26戸。組合員戸数のほぼ1割だ。離農の牧場を引き継いで、自立した酪農家となっている。

 さらに今秋、大規模経営を掲げて農協や企業が共同出資した農業生産法人「酪農王国」が稼動する。日本人の栄養を支える起業だ。自然放牧できる「緑の回廊」植林計画も3年前から手がけている。「エゾリス、シマリスなどを農地へ呼び戻したいんです」。発想のスケールは大きい。

 京都市で今年2月開かれた中小企業家同友会の全国集会で「戦略なき農協は生き残れない。農協も中小企業だ」とゲストスピーチ。9月には北海道法人会全道大会(釧路市)の講演に招かれるなど、大勢を前に話す機会も多くなってきた。

 「夢? もう一度ナナハン(750cc)バイクにまたがりたいな。毎日牛乳を1リットルちかく飲みます」と元気だ。「ともかく前へ一歩踏み出す、成功の反対は『なにもしない』ことだから。あきらめずにチャレンジを、と学生には言いたいですね」。

NEWS CIT 2010年9月号より抜粋