※本文中の役職等は取材当時のものです。

“道産粉”ハルユタカ
産学官連携で地域貢献

「小麦づくりから製粉・製めんまで、生産者の顔が見えることが社会貢献です」と熱く語る安孫子氏
「小麦づくりから製粉・製めんまで、生産者の顔が見えることが社会貢献です」と熱く語る安孫子氏

江別製粉株式会社社長

安孫子 建雄(あびこ たてお)氏

(昭和41年、工業経営学科卒業)

 ハルユタカ。こう聞いてピンとくる人は、ラーメン通といってよい。北海道立農業試験場が1985年に開発した春まきのパン用国産小麦第1号だ。その主産地が石狩平野の中心・江別市。江別商工会議所会頭でもある安孫子建雄さんは、「小麦づくりから製粉、製めんまで一貫して市内ででき、知名度も上がってきた。うれしいことです」と率直に喜ぶ。

 会社の創業は1948年、アメリカから戦後食糧援助で入ってくる小麦の製粉から始まった。安孫子さんは初代社長のひとり息子。いずれ跡取りになる身だったが、本学に入った理由がおもしろい。当時の大学の理事長は自民党副総裁をした川島正次郎氏(1890-1970)。「トップがこの人なのだから、この大学は大丈夫と、父親が決めた。工業経営学科もありましたし」という。

 4年間、サークルはIEM(インダストリアル・エンジニアリング・マネジメント)研究会に属した。ここでアメリカ式経営術の知識を広げるかたわら、重電、造船、自動車の工場を見て歩き、新幹線車輌工場にも出かけた。3年次の実習は岡山県の地下たび・ゴム手袋工場へ。「10日間、漬物とみそ汁で過ごしました」と懐かしそう。卒論は仲間2人とともに江別製粉をフィールドに生産計画のあり方をまとめたという。勉強家だったようだ。

 「父死去」。卒業式が済みキャンパスで謝恩会の真っ最中、訃報に接した。戦争からもどり、病弱な体をおして働きづめだったという。葬儀を終え、研究室長(取締役)として入社。「パンやカステラをずいぶん焼きましたね」。そういえば、社屋に入ったら試作のパンの焼けるよい香りが漂っていた。外麦(外国産小麦)をブレンドし、業務用や家庭用に出荷していく。セールスも経験し、96年から同社3代目の社長業へ。

 おりしも飽食の時代へ。自分の好きな味のパンを焼きたい(ホームベーカリー)、農薬不安のない粉をほしい・・・・・・消費者ニーズが次第に強くなっていくころだった。

 生産を内麦(国産小麦)へシフトできないか。安孫子さんらは前からこの課題に腐心してきた。北海道小麦100%シリーズを発売したのは就任6年前。「道産粉は『パンにならず、うどんもおいしくない』とバカにされつづけ。なんとかしたかった」。その期待を担ったのが日本では珍しい準強力粉(たんぱく質グルテンの含有量が高い)のハルユタカ。ラーメンにしたところ、強いコシ、でんぷんによるモチモチ感、小麦らしい香り。「生産量を増やせないかと、ずっと農家に相談をもちかけてきたんです」。

 そこからは製粉業というより、地域おこしといった方がよいだろう。産官学連携による「江別麦の会」(1998年)、異業種交流グループ「江別経済ネットワーク」(2002年)などを推進していく。目を見張るのは、農家を巻き込み、ハルユタカを春まきから「初冬まき」主体へ変えていったこと。赤カビ病を防ぎ、収量も増える一石二鳥の転換。その結果、3年前には地域ブランドの生ラーメン「江別小麦めん」を新発売、年間250万食を超えるヒットに。包装紙を地元の小学生の楽しい絵が飾る。

 安孫子さんが平行して進めたのは、産地の分かる粉づくり。トン単位で機械を動かすのが常識の業界で、500キロ~1トンで製粉を受注できる小ロット対応プラントを稼動させた(2004年)。地域の小麦を地域で活かす・・・・・・つまり、地粉ブランド。全道から注文がとび込む。

後輩2人も活躍

 2005年まで9年間、江別市教育委員長をつとめた。ゴルフは上達しないが、冬はスキーを楽しむ。部下には江別ブランド仕掛け人の営業部長(取締役)、佐久間良博さん(73年、工業経営学科卒)ら2人の本学後輩もいる。

 「自分のところでとれた小麦でパンを焼きたい、うどんを食べたい。消費者には、こだわりがあります。しかも、生産者の顔が見え、産地と消費者は結ばれていく。安心、安全、そして安価に。これが私たちの社会貢献です。大手とはちがった、中小の生きる道でもあると思います。売上高は伸びています」

 静かな口調のなかに、熱気がこもっていく。

NEWS CIT 2010年9月号より抜粋