※本文中の役職等は取材当時のものです。

理系から料理人の世界へ
ヨット部OBの懸け橋にも

銀座の味を守り続ける山形さん
銀座の味を守り続ける山形さん

東京・銀座 restaurant
「YAMAGATA」オーナーシェフ

山形 直之(やまがた なおゆき)氏

(昭和52年 金属工学科卒業)

 今年3月7日。土曜日。午後3時、気温は13・4度を記録。早春の暖かなこの日、東京・銀座の商業ビル「プラザG8」2階からヨットマンたちの陽気な声がこぼれた。restaurant「YAMAGATA」で開かれた千葉工大ヨット部のOB会。九州、四国、山口県と全国から約30人、毎年1回、先輩や仲間らとワイングラスを傾ける。オーナーシェフに笑みが広がる。母校の、今はないヨット部、その海の男たちの集まる場所、ここがセット出来て良かったなぁ、と。

 銀座8丁目のレストラン・ヤマガタは1924(大正13)年創業の洋食屋。木造3階建ての店は1階がレストラン、2階は座敷、3階が住居だった。高校1年からアルバイトで夜の繁華街への配達を手伝った。教わるでもなくオムレツなど卵料理も覚えた。「門前の小僧」のお経読みのように。

 平成元年、近隣のオーナー8人が共同で「G8ビル」を新築した。この頃から3代目のオーナーシェフとして腕を振るう。杉並区から銀座に通う日々。ランチのメンチカツが評判の看板料理。「高い銀座」のイメージとは違って、庶民の洋食だ。「店のメニューは私が食べに行って十分出せる料金設定」「ワインも格安で」。

 4歳上の兄の影響が大きかった。兄は東京理科大へ進学、ヨット部に所属した。高校時代から兄のヨット部の合宿に連れていってもらった。父はヤマガタの2代目店主。ネオン街への出前中心の店は父の代で閉じる、そんな覚悟だったのか、兄弟に家業を継げとは言わなかった。

 だから、兄と同じ理科系大学、ヨット部、と決めていた。海が好きだった。2浪して千葉工大へ。入学式の、その日、真っ先にヨット部に入部した。高校時代のバスケットにはあっさり別れを告げた。三浦半島葉山沖、湘南の海を走るディンギーヨットと金属工学の勉強、その延長線上の就職・社会人。厨房に立つシェフというライフスタイルは思いも寄らなかった。

 だが、大学4年の夏、人生は一転、舵を切る。チタンとモリブデンの合金を研究していた金属材料研究所で自分の力を知ることになる。「国のトップ研究者が集まっていた。レベルの高さに参った」「就職戦線は厳しかった」。高度成長期が終わった時代、就職難という現実に、掌中から「理科系人生」が逃げていった。

 父と、すでに技術職の会社にいた兄に打ち明けた。「店を継ぐけど、いいか」。3代目が産声をあげた。父は大喜びだった。

 翌年春、都内のホテルで料理人として働き始めた。異色の理科系大学出身のコック見習い。中学卒の先輩らに付き、鍋洗いから修業した。たまたま同じ年の同僚5人がこまめに面倒を見てくれた。就職の面接で「左利き」でも構わない、と言ってくれたチーフは、入社の日から「厨房全体の流れがあるから右手でやってくれ」と突き放す。包丁を右手に持ち替えた。6カ月かけて右利きに仕立てた。2年間でヤマガタに戻った。以来、父と並んでフライパンを握った。

 「料理は一人が一食を完食するわけですから、最後まで全部おいしくなければいけない。しょっぱくもなく、薄味でもない」「牡蠣とか、その季節の旬のものを使った料理がお薦めかな」「ワインとともにチーズ、和牛のカルパッチョから生ハム、最後にメンチカツ。5000円以下で済みますね」

 昨年、父は88歳で逝った。兄も2年前に他界した。「縁がなくって」ずっと、独り身の今、オーナーシェフは実妹らと店を切り回す。

 今年のヨット部OB会では、70歳を超えた初代部員が手打ちそばをみんなに振る舞った。上機嫌だった。ヨットを通じて青春時代の大学と今もつながる。平成2、3年ごろ、途絶えていたOBたちの集まりの音頭取りが出来たのもレストラン・ヤマガタがあってこそ。一軒の洋食屋、ひとつの銀座の味、守り続ける3代目の心意気に出会った。

NEWS CIT 2009年5月号より抜粋