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※本文中の役職等は取材当時のものです。

父の背中を見、建築の世界へ
“汗する仲間”と仕事を楽しむ

「学生はコミュニケーション技術を磨いて」と渡久地さん
「学生はコミュニケーション技術を磨いて」と渡久地さん

ライト工務店専務取締役

渡久地 克子(とくち かつこ)氏

(昭和44年 建築学科卒業)

 ロシア革命の「パンよこせデモ」ではないが、女性のパワーには底知れぬところがある。沖縄県建築士会副会長で本学OBの渡久地克子さん(1級建築士)もその一人だろう。建築基準法改正に伴う中小企業の苦境に怒り、今年3月、那覇市の県立武道館に建設業界や関連業界の計3500人を集めて開いた「現場からの悲鳴総決起大会」の仕掛け人(実行委員長)だ。

 今回の建築基準法改正の発端は姉歯事件(耐震偽装問題)。建設業界みずからまいた種といえる。しかし、行政による建築確認業務の遅れで仕事は滞り、型枠職人が「明日から働く場がない」と嘆くのを渡久地さんは耳にした。「自然の厳しい沖縄の建物はほとんど鉄筋コンクリート造り。改正の影響をもろに受けた。より安全に、より厳密にという国土交通省の考えは分かりますが、これほど経済活動を停滞させるのは許せません」と官製不況をしかる。

 関係者へ賛同を呼びかけた。各種の建設団体・労組をはじめ、県工業連合会、電気管工事業協会、電気工事業など異業種も快く協力。3月30日、県立武道館の「現場からの悲鳴総決起大会」に集まった3500人に、渡久地さんは「現状の早期打開を」と訴え、翌月には国土交通省に大臣を訪ね、直接要望した。

 さかのぼること45年。1963年夏、甲子園代表の栄冠は首里高に輝く。渡久地さんは当時としては全国でも珍しい、同高野球部女子マネジャーだった。その熱い声援を受け、日大山形を降し、沖縄勢として甲子園初Vを呼び込む。島中がわいた。女子マネはまだ甲子園のベンチ入りを果たせぬ時代だったが、建築業界の“女闘士”は乙女のころからファイターだったようだ。

 大工の棟梁だった父の背中を見て育ったせいで、自然と建築の世界へ。本土へ行き、本学津田沼校舎で受験。デザインを学び、卒業設計は「空港ターミナルビル」。三里塚で成田空港建設反対闘争の盛んな時代だった。むろん卒業テーマと関係はない。

 そのころ建築学科の女子学生は数人しかおらず、「歩けばミシミシ鳴る木造校舎の製図室で、ストーブにあたりながら、1週間くらい泊まり込みでまとめました。寒かったのは覚えているのですが、卒業テーマのコンセプトは忘れてしまいました」と笑う。

 下宿生活しながら大学へ通い、あちこち旅行し、「のほほんと過ごした」という。なぜか、印刷・ねじ・人形など沖縄にはない小さな町工場の風景は、「とても印象的。技術はこういうところで生まれるのだと感じました」。

 故郷へ戻って就職した先は県立工業高校建築科。5年ほど勤め、夫の転勤で渡った石垣島の建築設計事務所で働き、80年に本島へ。親類の経営する建設会社へ入り、みなが協力してものを造る建築という仕事のとりこになる。

 4年前、汗する仲間の写真展を企画した。さまざまな現場の監督らにカメラを託し、シャッターを押してもらった。1万枚を超えるカットから約250枚を選び、那覇市内で展示した。題して、「現場からのメッセージ」。

 「貌はほこりにまみれても、服は土に汚れても、それは働く者たちの絆ですから。
 ヘルメットの紐を結び、足場を踏みしめて、働く姿を信じよう。
 時とともに価値観は違いますが、未来を築く確かな手応え、それを伝えるのが
 仕事のかたちです」

 作品に添えた渡久地さんの一文である。この世界へのほれ込みようが分かる。

 数々の出会いをへて、56歳のときクリスチャンに。現場では日々若い人たちと接する。「今いる場所・時・与えられたものを楽しみ、そこを深く掘って専念しよう、未来と希望はその足元にあると話し合っています。これから社会に出る人たちは、ぜひコミュニケーション技術を磨いて欲しい。大学もそうした若者を育ててもらいたいものです」と大学人に注文した。

NEWS CIT 2008年7月号より抜粋