• トップページ
  • 自作のバイクをパリ・ダカへ! 「継続は力なり」を実現

※本文中の役職等は取材当時のものです。

自作のバイクをパリ・ダカへ!
「継続は力なり」を実現

「常にアイデアを・・・」と語る 山口隆志氏
「常にアイデアを・・・」と語る
山口隆志氏

(株)本田技術研究所
朝霞研究所 主任研究員

山口 隆志(やまぐち たかし)氏

(昭和58年 精密機械工学科卒業)

 埼玉県朝霞市泉水の(株)本田技術研究所・朝霞研究所で研究に取り組んでいるのが、山口隆志さん・45歳=昭和58年精密機械工学科卒業。

 山口さんは「設計をやりたいと思ったのは小学生の頃からの“夢”。当時、自宅の建て替え工事で設計者と大工さんの働く姿を見て、もの作りの面白さを感じました。学生時代も製図の方は力を入れてやりました」と話す。それ以上に車が好きだったので建築設計よりも機械設計を選んだ。

在学中、双眼鏡の設計も

 出身は東京都東久留米市。国学院久我山高校を出て本学に入学。「千葉工大を選んだのは、精密機械の学科が他大学にあまりなかったから」という理由。在学中は時計とかカメラに興味が強く双眼鏡の設計もやった。大学卒業後は、車好き、バイク好きということもあり、オートバイのホンダを希望。入社試験の面接では「自分の夢」を話した。「自分で作ったバイクを始まったばかりのパリ・ダカールラリーで走らせること」。もともと四輪車が好きで、18歳で免許を取得、学生時代は国内を走り回った。バイクに関心を抱いたのは、2年間いた千種寮の寮生たちからその面白さを教えてもらったことから。

 ホンダは2輪も4輪も作っているが、入社後は希望の2輪の研究所に配属された。ただ、担当はATVという機種開発GP。ATVは2輪用エンジンを搭載した4輪のバギー車で、当時、アメリカで爆発的に売れていた。この部署には5年勤務。その後、異動で2輪GPのオフロードチーム担当に。山口さんは、ATVの仕事をしながらもパリ・ダカの情報収集をしていた。だから、この時までに蓄えていたアイデアが一気に表面に出た感じだ。座右の銘の「継続は力なり」が実現になった。

 そして、待望の「パリ・ダカールラリー」の仕事に参加できる機会を得て、そのプロジェクトの中に入ることができた。その時点で最初の夢が実現できた。1988年から92年までの4年間、車体設計の仕事に就き、プロジェクトリーダーを任された。「実際のレースは89年にアフリカに行かせていただいた。この経験は、私の人生の中でも非常に良い経験になりました」。

 「アフリカは、日中の気温が40度から45度と高く、夜になると零度近くにも温度が下がり温暖の差が大きかった。そういう中で作業をしながらレースを続けた。朝、キャンプ地から車を送り出し、我々は飛行機で次のキャンプ地へ移動して待ち受けるというやり方。選手たちは夜中に戻って来ることが多く、次の日の朝までに車の整備・点検をしていなければ翌朝のスタートに間に合わないのです。大変でした。ほとんどが夜間の仕事でした」と当時を思い出す。

 約20日間のぶっ通しの長丁場だった。「まだ28歳で若かったので……」と言う。レースの結果はクラス優勝などで成績が良かった。「結果は企業イメージだけでなく、バイクの販売効果にもつながるので、レースから得るものは非常に大きなものがありましたね」。その後は、並行して量産車の設計も続けてもいた。

 現在は、設計ブロックに所属しているが、「立場的にも自分自身で絵(設計図)を描くということはなく、いまはLPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)と呼ばれている開発の総責任者で、すべての責任を任されています」と語る。技術的な面から販売面、コストダウンの購買部門の調整、車を世の中に出したあとのサービス体制など、すべての部署を総括する大切な仕事だ。

人と同じものは作らない

 「設計の醍醐味は、その人によって異なるが、ただ私の場合は、人と同じものは作らないという信念を持っています」。いま、山口さんは45歳の働き盛り。「開発には、一つの商品を出すのに2~3年はかかる。あと数えても5機種ぐらいしか出せない、時間が足りないと思います」と、いつも前向きに考えているからすごい。今年春には「FMX650」のモデルを発表し、フランスの雑誌で紹介された。「この会社の良い点は、自由に発言できること。そして、いざという時は必ずみんなで助け合う。今の時代、仕事は大変ですけどね」と笑って応える。

 本学在学中はバレーボール部に所属。遠山正俊教授に指導を受けた。「週末は、バイクと同じくらい好きな自転車で荒川沿いを走っています」。後輩たちには「いろいろ情報を得て、みんな知識が豊富ですが、それだけでは勝機を生み出せない。夢とか情熱とか、アイデアを常に考えて、この創造力を多くもっている人材が育ってくるのが嬉しい。そういう若者たちと、これからも仕事をして行きたい」と語った。

NEWS CIT 2005年8月号より抜粋