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※本文中の役職等は取材当時のものです。

産学官民の共同(共働)の理念で大学運営を
”志なきは老いる”と向上心説く

「なにごとにも向上心を・・・・」と松原学長
「なにごとにも向上心を・・・・」と松原学長

日本文理大学学長

松原 典宏(まつばら のりひろ)氏

(昭和40年・機械工学科卒業)

 「高校時代は柔道に夢中で、あまり勉強をしなかったのですが、中学生の頃から機械いじりが好きなのと、東京へのあこがれもあって、千葉工業大学に進みました」

 昨年10月に大分市にある日本文理大学学長に就任した松原典宏氏は、昭和40年、本学機械工学科卒業。

いまだ忘れぬ先輩の好意

 「在学中の思い出は、大久保寮の生活ですね。1部屋4人でした。入寮の時に3年の先輩が私の荷物を担いで運んでくれたのがうれしくて、いまだに忘れられません。寮の運営はすべて学生に任され、貧しかったけれど、楽しい思い出ばかり」。家庭教師などのアルバイトもした。当時は、北海道や九州からの学生が多かった。「現在の千葉工大は、単科大学の中で良い地位を占めています」と感想を述べる。

 大学3年の時から国家公務員上級職試験の勉強を始めて、合格した。「ともかく問題集に取り組んで勉強しました」と語る。合格発表後は、全部で24省庁をはじめ大学研究機関から求人が舞い込んだ。結局、東京大学工学部助手に。昭和57年に工学博士の学位取得。東大工学部講師になり、昭和61年4月に日本文理大学助教授に就任した。

 昭和63年、教授に就任し、その後は広報室長や学生部長兼国際交流室長、工学部長などを務めた。広報室長からの学長就任はきわめで異例。その点について、松原氏は「学長職は経営側の理事も兼務、両者の板挟み、心労が重なります。全職員の顔や名前が頭に入っているものですから」と苦笑する。

 「私が広報室長の頃は、大学経営も順風満帆。航空宇宙工学科などは全国から受験者が大勢来て、女子も1割いました。まさに良き時代。大学の経営者に危機感なんてありませんでした。平成3年に、危機感を感じて、大学評議会に私なりの意見を出しましたが、受け入れられませんでした。しかし、当時の文部省は先を見越していたんですよ」と穏やかに語る。

「火中の栗」と就任時を語る

 学長に就任した時は、「火中の栗を拾う」の心境。松原学長は、就任と同時に県内全部の高校回りをして、「全校長にお会いました」というからその行動力はすごい。

 「春季と秋季に全国26都市に各学科教員が出向き、保護者を招き地区懇談会を開いていて、学業成績のほかに、生活状況、将来の就職・進路について話し合い、喜ばれています」と語る。

 同大学の前身、大分工業大学の建学精神は「産学一致」だったが、昨年から「産学官民の共同(共働)」に変えた。地域に開かれた大学を目指そうという松原学長の意欲の表れでもある。教員の意識の改革を求め、教員の教育業績も重視している。いま同大学も、新しい学科の改組転換を行っている。学科新設とともに、「学科の名称も大切」と認識している。

 好きな言葉は「志なきは老いる」。やはり「なにごとにも向上心が必要だ」と、前向きに考えている。大分市新春日町に妻と次女の3人暮らし。

NEWS CIT 2002年6月号より抜粋