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※本文中の役職等は取材当時のものです。

ピカ一の商品づくりを
勝ち残るには常に危機感を胸に

「小さくともピカ一を・・・・」と中村社長
「小さくともピカ一を・・・・」と中村社長

(株)トヨトミ社長

中村 出(なかむら いづる)氏

(昭和49年機械工学科卒業)

 枕元にいつも約20冊の本を置く。歴史物を中心に乱読する。仕事や自分を外から見直すための刺激剤である。

 「一番好きなのは『坂の上の雲』(司馬遼太郎)です。学生時代以来3年後とに読み直し、もう6回かな」

 では、学生時代から勉強の虫だったかというと、そうでもなさそうである。愛知県の進学校から学部7番の好成績で本学へ。全国のキャンパスに学生運動の嵐が吹き荒れ、授業ボイコット、バリケードによる校舎封鎖も珍しくなかった。ノンポリ学生にとって、大学の意義を見いだせず、高校時代の友だちと都内などで遊んでばかり。2年留年して卒業したが、普通なら2年で取る「体育」の単位を6年目に終えたというから、生半可なサボリではない。

 「でもね、このままでいいのかと、不安というか怖くなりましてね」と笑う。松井愃教授の指導で熱力学を卒論テーマに、遊びに投じたのと同じくらいのエネルギーで取り組んだ。卒業成績は学部同期で3番だった。「やれば出来るじゃないかと言われたときは、うれしかったですよ」。やるとなったら徹底的にやるタイプ。

 「トヨトミ」(本社・名古屋市)の主力商品の石油ストーブは国内で40%、北米、ヨーロッパ、中近東など海外でも50%のシェアをもつ。父親が創業した、この業種のリーダー的存在である。「いずれは継ぐ」と思ってはいたが、卒業して入ったのは関連の事務用機器製造「トヨセット」。製造現場に入り、しかも摂氏40度を超える塗装工程のラインでは、始業30分でからだの水分が汗と消える。休み時間に水分を補い、塩をなめる。「息子だからの逆差別だ」と文句を言ったら「だから当然だ」とたしなめられた。約2年間続けた。「結局はよかった。厳しさの判断ができるようになったから」と振り返る。

 その後、トヨトミ福岡市店で営業の第一歩を踏み出した。あわせて業界初の1枚絞りのステンレス浴槽を開発し、九州一円の住設会社の代理店などを新規開拓に飛び回った。さらに、トヨタ自動車に身を置き、「カンバン方式」で知られる生産方式、コスト低減・合理化策などを学んだ。

 1982年春から5年3カ月のアメリカ生活は視野を世界へ広げた。石油ストーブ販売の子会社「トヨトミ・USA」を起こし、社長に。ときに32歳。「現地のスタッフとは肩書き、年齢といろいろ違ったが、ことビジネスでは社長も社員も1対1で対等に向き合う。若く経験のない者でも情熱さえあれば『喜んでサポートする』と言ってくれるお国柄」と、米国ビジネス界の進取の気性を評価する。

 とはいえ“和食党”の苦労は大きかったらしい。子会社の設立はビジネス妨害と、かつて取引先だったアメリカの倒産した販売代理店が1億ドルを求めて独禁法違反の疑いで訴えてきたのは最大の試練だったが、勝訴に近い和解で決着した。本土49州のうち43州を駆け回ってシアーズ、ウォールマート等の一流量販店への販路をつくり、5年目に初の黒字を出して帰国した。

 モノづくりは楽しい半面、苦しく、厳しい。開発の努力は、排気ガスを再燃焼(ダブルクリーン)させて一酸化炭素や二酸化窒素を大幅に減らしたり(86年に全米安全評議会の製品安全達成賞)、省エネタイプの小型ストーブの開発(95年に省エネルギーセンター会長賞)などに実を結んだが、「会社の存在価値はそこにある。ウチの製品がないとユーザーやお得意先が困るような、小さくともピカ一の商品群を出していきたい」と経営哲学を説く。

 10年前にいまの椅子に座った。地球の温隈化、エネルギー問題など、早いスピードで課題は迫ってくる。

 「ガソリン自動車がハイブリッドカーから燃料電池車の時代になると、石油や灯油を使うことは減っていくかもしれない。そうした変化を念頭に競争に勝ち残るには、危機感が必要だ」とも言う。

 グループ全体の従業員は約2000人。本学のOBも勝又幸治副社長(昭和33年工業経営学科卒業)ら約30人いる。

 「世の中にないものを作っていくため、自分で目的やハードルを設定し、それを乗り越える人材を育てて欲しい。いまの若い人には突飛な人はあまりいないが、好奇心あふれる面白い学生が集い、学びやすいムードのキャンパスにして欲しいもの」と注文をつけたのが印象的だった。

NEWS CIT 2001年1月号より抜粋