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※本文中の役職等は取材当時のものです。

誠実と努力が「道」開く
人生の岐路に会うたび先輩が・・・・

「誠実と努力を~」と語る永井社長
「誠実と努力を~」と語る永井社長

第一高周波工業(株)社長

永井 義忠(ながい よしただ)氏

(昭和30年 金属工学科卒業)

 長崎県五島から、よく本学を選びましたね、との質問に「興亜工業大学(千葉工業大学の前身)には、九州から優秀な人たちが大勢入学してましたからね。いい大学なんだと思いました」。

 当時、興亜工大は難関校であった。ちなみに昭和19年の入学志願者は7200人。45倍を記録した。「この旧制大学がまだ残っていることを知り、憧れたわけです」。

 高校までは文化系だったが、鉱山に興味を持ち金属工学科へ。「入学金、授業料が安く、また寮があったことも魅力でしたね」。

 しかし、一年目にして数学や物理の授業についていけず、主任の先生に、他大学へ行きたいと相談した。結局、説得され残ることになる。踏みとどまったことで生涯忘れられない体験をする。その一つが足尾銅山見学会である。

 鉱山花やかなりしころのことで、夜な夜な足尾の町を飲み歩き、コミュニケーションを図ったという。まだ、本学が新制大学移行したてのころで、先生も学生も何とか大学を堅実なものにしようと意欲に燃えていた。ここには強い絆があった。

 「やがて卒業の年を迎えたのですが、ひどい就職難でしてね。雀部先生が熱心に、私に東大の大学院に行くことを勧めるんです。でも自信がなくてね・・・・・・。ちょうどその時、大学の先輩である日本ロールの青木専務が毎日のように研究室に来て私を待っているんですよ」。とうとう口説き落とされて日本ロールに入社。

 「これと併行して、親戚の勧めや私の郷里の大先輩である平山源一郎氏が創業したという関係で、第一高周波工業にも見学に行ったんですが、創業間もない頃で社員が30人位だった。それで少しでも大きいところに入ろうと日本ロールに決めました」。

 ところが、日本ロールでは思わぬ試練が待ち受けていた。入社11年目、若き工場長として活躍していた時のことである。総評系のストライキが日本ロールを襲った。

 「管理職という立場から組合員を説得したり、若い組合員をイジメたりしてね。良心が咎めましたよ。私が組合に入りたいぐらいだった。右翼団体が会社に乗り込んできて御用組合を守ったり・・・・・・」。さらに追い討ちをかけるように「妻も大病して入院するし、子供はまだ3歳と4歳でした。この時はずいぶん苦労しました」。人間としての苦悩が頂点に達し、ついに辞表を提出、傷心のうちに一人郷里に帰った。

 2年後、偶然にも第一高周波の平山氏と会うことができた。このころには、第一高周波はすでに東京に進出していて、鉄道レールで世界的に有名になっていた。昭和43年、第一高周波に入社。ここでも苦労は絶えなかったという。「中途入社のためイジメにも会いましたが、関西の明石工場建設を担当したことで、自信がつきました」。下働きも誠実にこなした。「朝7時には出勤して、みんなが来る前に作業しやすい環境にしておくんです」この地道な心配りが社員一人ひとりの心を開かせた。また、常々創業者の薫陶を受け、自身の誠実さと努力が実り、平成7年、社長に就任した。

 「毎年、新入社員に言うんです。『誠実な人間になってほしい』と。誠実であるということは、人間形成にも役立ち、秩序ある社会人として大切なことです」。現場で辛酸をなめてきた永井社長の言葉だけに重みがある。

 最後に臨済禅師の言葉を引いて、自身の生き方を総括してくれた。

 随処作主(随処に主となる)

 (どんなところででも環境・境遇に左右されず主体性を持つ)

【第一高周波工業(株)】

昭和25年に、経営の独立、独自の技術、人間尊重の経営理念で設立された。高周波誘導加熱応用による熱処理加工事業のパイオニア。プラントを含む鉄鋼、造船、石油、化学、天然ガスのパイプラインなど広い分野で利用されている。新技術の開発には特に力を入れ、これまで大河内記念賞2回と、ほか数々の発明賞を受けている。

NEWS CIT 2000年5月号より抜粋