※本文中の役職等は取材当時のものです。

学んだ知識が生きた 印刷業から瓦業へ

学んだ知識が生きた 印刷業から瓦業へ
「勉強にしろ遊びにしろ、何でも体験を」と山内さん

株式会社鶴弥常務取締役

山内 浩一(やまうち こういち)氏

(昭和55年、工業経営学科卒)

 家造りで肝心なのは風雨を防ぐ屋根。「だが、この業界へ入るまで興味がなかったんですよ」。愛知県を地盤にする三州瓦製造のリーディングカンパニー「鶴弥」常務取締役、山内浩一さんは苦笑を交え、そう打ち明けた。武道6段の強者とは思えぬ穏やかな口調である。

 粘土瓦の3大産地は、三州瓦をトップに、石州瓦(島根県)、淡路瓦(兵庫県)。そのいずれとも山内さんにゆかりはなかった。北海道での高校を終えるまで炭鉱で栄えた芦別市と工業都市・苫小牧で育ったからだ。千葉市内に住むおじを頼り、首都圏に近い本学へ。

 キャンパスライフの中心は、4年間を過ごした「工業経営研究会」サークルであった。中高生のころ部活や町の道場で鍛え、剣道3段、柔道2段、空手初段の腕前。もし武道3種競技でもあればノミネートされそうだが、「大学では文化活動を」と同研究会を選んだという。

 軽井沢や逗子で合宿し、芝浦工大など他大学と交流を重ねた。約40人いたメンバーの注目は、そろそろブームになりかけのコンピューターゲーム。穴を打った紙テープの信号をもとに、ブラウン管上でピンポンやテニスのボールを往復させたり、ドライビングゲームの画面などを作った。初歩の初歩だ。

 2年になって1年間世話になったおじの家を離れ、大学からそう遠くないところに下宿した。当然、たまり場に。家庭教師のバイトなどをしていたが、ぜいたくなことに部屋へ〝家電〟を引いていた。酒が入り、「実家へ掛けていいかな」と受話器を握られたら断れるはずはない。沖縄、熊本、同郷の北海道へと友人らはダイヤルしまくり。「翌月の請求額は万単位。びっくりでした」。楽しそうに思い出す。

 もうひとつ、脳裏に焼き付いていることがある。3年次、大学祭を手伝った。ヒット曲『飛んでイスタンブール』などで知られるシンガーソングライター・庄野真代さんの事務所へ行き、「出演してください」。上首尾で進み、歌声は津田沼キャンパスに響き渡ったが、「別世界をのぞくようで面白かった」という。

  人生を変える出会いは4年次にやってきた。無駄を省く「トヨタ生産方式」を卒業研究テーマに、愛知県豊田市の関連会社寮で約1カ月世話になった。名古屋市内にいた別のおじが知り合いの会社を推してくれた。ときに、のどから手が出るほど企業が人を求めたバブル経済(1986~90年)の門口まであと約6年を要する就職困難期であった。

 ともかく、卒業と同時に笹徳印刷工業(現・笹徳印刷、愛知県)へ入社。トヨタ自動車のニューモデルの印刷や株式上場準備室などを担当し、今いる鶴弥へ円満に迎えられる1990年まで10年勤め、その間、地元出身の奥さんと結ばれた。

 「まだインクの香り漂う新車カタログのゲラ刷りを東京のデザイン事務所へ届けるため作業服のまま新幹線によく飛び乗った。周りはほとんどスーツ姿。いささか恥ずかしかった」

 そこから180度異業種の瓦メーカーへの転身も勇断といえよう。しかも「大学で学んだ知識がやっと生きた」というから、人生何が幸いするか分からない。

 最初は株式上場の準備を担い、それが済むと製造部門へ。約200種類、色だけでも30種類は下らない瓦の世界。屋根と同じく形状は複雑で、自動化した工場と自動化になじまない工場がある。いかにロスを低減するか。労働集約型の製造ライン組み立てに本腰を入れた。その後、台風で飛ばない突起付きの防災瓦(スーパートライ110)の開発・製造に携わってきた。業界では「画期的」とされる技術だ(2001年取締役、14年常務)。

 「勉強にしろ遊びにしろ、なんでもいいから体験を。必ず後で役に立つ」と若い人に言ってきかせる。週末にはクラシックコンサートやジャズを聴きに名古屋まで足を伸ばす。小さいころ音楽教室で嫌々覚えたピアノも少し弾く。まさに文武両道。「でも、体の方はもう言うことを利きません」

NEWS CIT 2016年10月号より抜粋