※本文中の役職等は取材当時のものです。

異色 新聞社で役員
一期一会、悔いなく

「母校の研究開発は誇り」と話す山下さん
「母校の研究開発は誇り」と話す山下さん

西日本新聞社執行役員(広告局長)

山下 利一郎(やました りいちろう)氏

(昭和57年、工業経営学科卒)

 学生時代に培った人間力と卒業研究の知識をフル活用し、いま西日本新聞(本社・福岡市)の広告局長(執行役員)として営業の第一線に立つ。山下利一郎さんの歩みは異色の本学OBといってよかろう。

 生まれ育った福岡県は中国大陸への窓口。開放的、派手好き、陽気な県民性といわれる。「仕事上でやりがいはあるけど人や車が多く、地価も高い東京は永住の地としてはどうも……。福岡はちょうどよい」。出ても戻るのはここと決めていたという。

 剣道で県立高校時代を過ごし、腕前は2段だ。大学は東京で、と本学へ。JR総武線小岩駅に近い下宿から通った。ただし、剣道を続けるより学生生活を謳歌しようとフォークソング研究会へ。もともと音楽好きで、なかでもギタリストはカッコいい、と。

 ところが、約50人いたメンバーは男ばかり。勢い、遠くない女子大の同じサークルと合同練習したり、大学祭での演奏会など楽しい時間を送った。

 新たに取り組んだのが九州では縁遠かったスキー。当時、若者の間でスキーツアーは一大ブームだった。札幌オリンピック(1972年)が契機といわれる。深夜バスを連ねてリゾート地へ群がった。山下さんはここでもカッコよさを追及。練習を重ねツアー添乗員のバイトをこなすほど技量を上げた。卒業後もスキー場通いを続けインストラクター免許も取った。器用なのだろう。

 青春という時計の針の回転は早い。4年後、ふるさとへ戻ろうにも地方では就職門戸は狭い。思い浮かぶのは地元の銀行、百貨店だが、場違いな感じがし、西日本新聞社に出願。全国紙、ローカル紙を含め九州一の部数を誇る伝統紙だ。

 「卒業研究のテーマは『クレペリン検査の自動判定システム』だったんですよ」。一定時間内の1桁数の計算結果(正答率)から性格・行動面の特徴を判断する、あの心理検査だ。「回答数は初め(初期努力)は高くてもだんだん下降するが、終わり(終末努力)は再度上がらなきゃいけない。そのコツを知っていたぶん、入社試験はうまくいきました」と33年前を思い出して笑いながら、理想的な検査カーブを描いてくれた。

 実はこの時分、新聞業界はコンピューター組版システム(CTS)導入の渦中にあった。新聞製作の新時代。クレペリン検査もさることながら、コンピューター言語の知識を買われたのだろう。

 卒業式をすませ、入社するとシステム開発部へ。そこで広告局を担当した。広告は記事とともに紙面をつくる大切な要素だ。経営も支える。日々変化するニュースの量に応じ、段数や割り付け位置は微妙に動く。「売上計算などを含め、電算処理プログラミングづくりは結構きつかった」と振り返る。

 7年目。その仕事を若手へ引き継ぎ、広告局本体へ異動した。クライアント(広告主)や広告会社回り。大まかな業務の流れはすでに頭の中にあるとはいえ、持ち前の明るさで切り替えはスムーズだったようだ。福岡とびうめ国体(1990年)のプロジェクトをクリア、東京勤務(94~2000年)や広告部長職などをはさんで2年前に現ポジションに。局員60人、うち10人いる東京支社へ月1回は出向く。

 「昔だったら、ど~んと紙面を飾れば広告効果があった。現在はテレビ、インターネットなどメディアは多様化、新聞離れの若者層に対する媒体力は後退している。その中で広告という視点から優れた生活情報を読者へ提供できるか、地域のためになっているかを念頭に、訴求力ある広告づくりにクライアントとともに知恵を絞っています」

 クジラに発信機を付けて追跡し、被災地で活躍するロボット技術などで注目される本学に、「このような研究や開発をしていることを誇りに思う。日本に、世界に貢献できることを独自の観点でどんどんやってほしい」と期待を込めた。

 好きな言葉は「一期一会」。仕事も遊びも悔いなく取り組み、たまのゴルフで気分転換を図る。家族は薬剤師の奥さんと二女。

NEWS CIT 2015年6月号より抜粋