※本文中の役職等は取材当時のものです。

人生、送りバント
共存共栄点を探る

「人を思いやる気持ちを」と松本さん
「人を思いやる気持ちを」と松本さん

バイテック副社長

松本 章治(まつもとしょうじ)氏

(昭和52年、電気工学科卒)

 「人生、送りバントですよ」。デバイスビジネスで伸びる株式会社バイテック(本社・東京都品川区)の代表取締役副社長、松本章治さんは、意表を突くフレーズで笑わせ、相手の心をつかむ。ピンチを幸運につなげる、明るい苦労人だ。

 札幌市から東へ車で約1時間の北海道長沼町で育ち、高校時代は硬式野球部で白球を追った。セカンド(2塁手)で2番バッター。「送りバントばかり。それと足が速かったので盗塁です」。どこか教訓めいて胸にしみる。

 中学生のころから電気屋でアンプを買い、ラジオを製作した。理系進学をこころざし、札幌市内の予備校に通った。友人との下宿暮らしのせいか気が緩み、2浪へ突入。さすがに親は怒ったという。新聞配達で自活しながら勉強を続けたものの、「いろんな人に染まってしまった」。結局、遅くまであった地方入試に救われ、新聞配達奨学金も得て本学へ。

 新聞の配達は楽ではない。朝刊は未明なのでよいとして、夕方には配り終える夕刊は講義時間と重なるだけにきつい。半年してバイト先を移り、授業料以外の生活費を自分で稼いだ。クラブ活動はしなかった。

 2年生の後期のこと。4室並んだアパートの外壁へ隣の幼稚園からいたずらっ子がしきりに小石を投げつける。「危ないじゃないですか」。その苦情に頭を下げた園の教諭こそ、いまの夫人というから、人生はまさにドラマだ。空間における「空気の流れ予測」をテーマにした卒業研究をグループでまとめ、石油ショックに続く就職難の1976年、自分で探したエレクトロニクス総合商社に職を得ると同時にゴールインした。

 電子部品などデバイスビジネスはそのころ花形。電卓、ゲーム、ビデオ、ラジカセなどへと需要は広がり、日の丸半導体の生産が世界一になった1980年代、日米半導体摩擦が激しさを増す。その荒波の中、87年に総合商社から松本さんらは独立、スタートしたのが半導体専門商社バイテックだ。

 ソニーと特約店契約を結ぶなど、「外部販売で急拡大した」(松本さん)。杜の都・仙台に営業所を立ち上げ、責任者として単身赴任している。商談で東北中を歩き、「新しい顧客を見つけるのが楽しかった」。新商品の情報を得て、メーカーへ売り込む。車載オーディオなどに引き合いが多かったという。7年後に東京へ戻り、その後も営業畑一筋。97年に役員、2010年には代表取締役副社長となった。

 その一方、独自のソフトウエア開発などを目指し、80年代末に系列技術会社バイテックシステムエンジニアリング(本社・品川区)を設立、技術力のアップを図ってきた。同社には本学卒業生も2人いる。さらに、メーカーの工場海外進出とともに北米、中国、シンガポールなどにも支店を出してきた。

 「私の好きな言葉でもあるのですが、ビジネスは『共存共栄』です」と言いながら、人差し指の上にボールペンをそっと置いた。シーソーのようにぐらぐらし、安定しない。「必ず重心はあります。仕入先も、お客も満足する均衡点です。これをどうとるか。ビジネスとはウイン・ウインの関係。30年間営業をやってきて、この経験則だけは変わりません」と力を込めた。共存共栄は、経営の神さまと呼ばれた故・松下幸之助のモットーでもあった。

 3年前から環境エネルギービジネスへも領域を広げている。群馬県中之条町など6カ所にメガソーラー発電所を稼動させ、自治体と連携しながら、電気の地産地消を通した地域活性化を推進中だ。月のうちの3分の2は顧客回りに費やす。好きなゴルフも仕事先とのことが多いという。

 「若い学生には、人間関係を大事にし、人を思いやる気持ちを学んでほしいですね。勉強も。専門的な知識も大切だが、時代とともに必要とされる技術は変わります。基礎学力さえあれば、応用力につながっていきますから」。

NEWS CIT 2014年3月号より抜粋