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※本文中の役職等は取材当時のものです。

千種寮からスタート 好きな設計技術 時代に生かして

「津田沼キャンパスとは奇縁」と語る北澤社長
「津田沼キャンパスとは奇縁」と語る
北澤社長

協同電子エンジニアリング社長

北澤 晶彦(きたざわ あきひこ)氏

(昭和60年、電子工学科卒)

 車はいまや先端ハイテクの塊といっても過言ではない。競争も熾烈だ。カーオーディオ、カーナビ、ETCなど車載機器を手がける協同電子エンジニアリング株式会社(本社・横浜市都筑区)の社長の椅子に本学電子工学科OBの北澤晶彦さんが着いて間もなく2年。「英会話だけはものにしておくべきでした」と苦笑いしつつ、欧米へ、中国へと忙しく駆け回る。

 実家は長野県小諸市の郊外。しかし、会社員だった父の転勤にともない、愛知県・知多半島の東海市で生まれ、高校まで過ごした。時代は「一家に1台」といわれるほどのオーディオブーム。米国のカーペンターズなどポップス系全盛でもあった。将来はオーディオに関係した仕事をと、足はおのずと電子工学科へ。

 津田沼キャンパスには戦前、陸軍鉄道連隊があった。「祖父が長野から軍馬を1頭納めに来たことがあると入学後聞きました。奇縁ですね」

 学園生活のスタートは千種寮で切った。しかも、バンカラかつスパルタ式で聞こえた第1棟4階。夜、廊下に並んで号令点呼、コンパ、そして寮祭ではふんどし姿で御輿をかつぐ。そうとは知らずに北澤さんら10人が入寮した。

 「これはたまらんと、1週間で半分が退寮してしまいました」。夜逃げならぬ“昼逃げ”。日中荷物をまとめて姿を消したという。でも、コソコソしたくないと3年いた。負けず嫌いである。

 3年間ですか?「4年生へ進むには単位不足で、研究室に属せなかったんです。勉強をさぼった報いでしょう。自業自得。引き続き学費は出してくれましたが、親にはものすごくしかられました」と振り返る。

 アパートへ移り、心機一転。アルバイトをしながら翌年、無事4年生に。パソコンで作った画像をLSIを使ってスーパーインポーズする回路設計に取り組んだ。就職も東証一部上場の音響系OEM会社へすんなり。

 就職した1985年は電気通信の画期であった。それまでの日本電電公社はNTTと看板を変えて民営化。通信回線の自由化、他社による事業新規参入が始まった。電話機に留守電機能を付加したり、通信に音楽データも乗せられるようになった。「質の時代」の到来だ。北澤さんはそれらのモデム設計を担当したが、やがて生産工程は人件費の安い中国へ。余剰人員対策の希望退職募集をきっかけに、「好きなカーナビ設計をやれる」(北澤さん)との話もあり、主に車載機器設計を受注、高い音響技術を誇るいまの会社へ移った。10年目の転機である。

 案内人不要のカーナビは便利なツールだ。「設計に係わった業務用ナビが新潟中越沖地震(2007年)の復旧に効果を発揮した」と北澤さん。影の力である。その多様さは面白く、業績を伸ばして2011年12月、社長に指名された。

 「現在、スマホでさえグーグルによる無料ナビ機能を持っている。夏場、摂氏100度近くになる車内に常備するには、今は車載器が優位性を発揮していますが、だから大丈夫と慢心し、うかうかすることはできませんね」

 その車載機器製造も台湾、中国へと移転しつつあるという。

 約110人の社員の平均年齢は34歳と若い。アメリカやドイツに子会社やオフィスを配し、中国での取り引きを含め年に数回は海外へ出かける。留守番電話のソフト開発の際、不具合ロットを大量に造ってしまった前の会社における苦い教訓から、「設計者を増強し、信頼性を高めるのが使命」と話す。

 本学の卒業生はただいま4人。「互いの能力で仕事をこなしている組織なので、特別に学校を意識することはありません。それにしても、若い人は酒席へと声をかけても乗って来ませんね」といささか寂しそうである。休みはゴルフで気分をほぐす。

NEWS CIT 2013年11月号より抜粋