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※本文中の役職等は取材当時のものです。

「人生一度きり」
ディーゼルのパワーに魅せられて

「学生時代の人付き合いが基礎にある」と話す中島常務
「学生時代の人付き合いが基礎にある」と話す中島常務

ダイハツディーゼル(株)常務取締役

中島 亮太郎(なかじま りょうたろう)氏

(昭和50年3月、機械工学科卒)

 悲鳴ひとつ上げず推進プロペラを回し続けるディーゼルエンジン。「すごいパワーや」。伊豆大島への旅でのぞいたフェリーの機関室が、ダイハツディーゼル(株)常務取締役、中島亮太郎の人生を決めた。いまから38年前、本学機械工学科3年のときである。

 中島さんが事業所長を務める守山事業所は、ダイハツディーゼル社員の7割近い約630人が働く技術開発センターならびにメイン工場だ。琵琶湖の東岸、滋賀県守山市にある。JR京都駅から快速電車で25分もあれば着く。その南に接する草津市で高校までを過ごした。「いちど花のお江戸で暮らしたかったんですわ」と応接室で昔を思い出してくれた。

 首都圏は物価が高い、関西だってたくさん大学があるではないか。そう言われるだろうと一計を案じた。先祖に南総里見八犬伝の里見家に仕えた人物がいると聞いていた。「おじいちゃんも兵役は習志野連隊やった。祖先の地で学び、腕に技術もつけるから」と親をくどいて本学へ。なかなかの“知恵”である。

 「津田沼駅の向こう側に喫茶店が2、3軒あるくらいやった。でも10年前、出張のおり大学へ寄ったら、あまりの都会ぶりにたまげましたな」というくらい当時は閑寂だったらしい。さらに全国から本学へ集うとはいえ、関西弁は面白がられたという。

 サークルに加わらず、いわゆる“帰宅部”を通した。キャンパスに近かった下宿の仲間やクラスの友人と、宅配などのアルバイト代で飲み、東北などへ旅した。「『江戸じゃあ、そんな言い方はしないもんだぜ』と言葉をよく注意されましたなぁ」と笑う。おっとりした性格そのままに、のんびりした学生生活を楽しんだ。

 さて、運命の出会い。東京・晴海桟橋から伊豆大島へ渡った。船室のすぐ下は機関室。やかましい。音の先へ降りていくと、船員に声をかけられた。「学生さん、見てくか」。そこにあったのは、黙々と推進プロペラを回しているディーゼルエンジン。むろん危険ゆえ中へは入れてもらえず、通路と室を仕切る厚いドアの丸窓からの見学だったが、圧倒的なその力強さに魅せられてしまった。

 続きがある。卒業研究は空気の「層流と乱流」について。そのため3万5000円もしたルート計算付き電卓を秋葉原で買ったのだが、就活はダイハツディーゼル一本槍。ふるさとにある守山工場は前から知っており、4年の帰省時、工場を訪れ、「ここで働きたい」とPR。会社はその熱意を買い、本学へ求人をかけてくれて優先採用されるレアケースだった。

 すべて順風満帆だったわけではない。1907(明治40)年創立の同社は、船舶用・陸用のディーゼルエンジン・ガスタービン・ガスエンジンなど幅広く受注・製造する。製品の試運転検査部門を皮切りに仕事を始めたが、契約条件である試験を忘れ、「取引停止だ」と怒る船主をホテルまで追いかけて許してもらったことも。入社4年目には、エジプト・カイロ下水道局へ機械の据え付けと技術指導を命じられた。技術も英語も未熟。本社との電話・テレックス交信もままならず、身振り手振りで、自分の判断をもとに「度胸で2カ月間の役目を果たした」。

 艱難は人を玉にす。いつのころからか、「人生一度きりと思えば、何事にも飛び込んでいける」が信条に。それもこれも学生時代、友人たちとワイワイガヤガヤもまれたときの人付き合いが基礎にあるという。

 本社(大阪市北区)のCS(顧客満足)推進事業部長などをへて、4年前に取締役(守山工場長)、2年前に常務取締役(守山事業所長)に就任。急激な円高傾向の影響により主力の船舶用製品販売が減る中、取り組むべき課題を明確にしつつ対応しているという。たまるストレスを解消するため、休日は時間の許す限り遺跡をウオーキングして汗を流す。

 「でも、ランチビールで、すぐ元も子もなくなりますわ」

NEWS CIT 2012年7月号より抜粋