• トップページ
  • Kamaboko業をITで引っ張る 人と接し、生きる力を学べ

※本文中の役職等は取材当時のものです。

Kamaboko業をITで引っ張る
人と接し、生きる力を学べ

「英語力も着けて」と河内さん
「英語力も着けて」と河内さん

河内屋社長

河内 肇(かわうち はじめ)氏

(平成2年、金属工学科卒)

 Kamaboko。昔から日本人の口に入っていた蒲鉾を英語で表記すると、こうなる。いまや国際語だ。富山県魚津市に本店を置く鮨蒲本舗「河内屋」3代目社長、河内肇さんは本学金属工学科卒だが、車メーカー「いすゞ自動車」から水産業の一角へ人生の舵を切って18年。「やっと慣れてきました」と自信をのぞかせる。

 JR魚津駅そばの河内屋魚津本店。事務所・工場ビルの1階にある売り場の冷蔵棚には、約50種類の商品が並ぶ。かまぼこにアナゴがのっていたり、昆布で巻いたもの、あるいはチーズを練りこんだり。カラフルである。「消費者に飽きられないよう、時代とともに新製品を出しています」と河内さん。昨年は「楽天市場」EXPO2011で、EXPO賞(地域特産品賞)を受けている。

 神奈川県で育った。実父も本学機械工学科卒のエンジニア。「千葉工大も受けておけよ」「材料も面白いぞ」という父との会話もあって金属工学科へ。卒業と同時にいすゞ自動車へ入社、製造ラインの設計に携わっていた。ところが3年目の93年、転機を迎えた。

 「私はムコ養子なんです」。就職翌年に結婚した。河内屋2代目社長(現会長)のお嬢さん(長女)で、後継者に名指しされたわけだ。週休2日から年中無休に近い世界への進路変更。「悩みました。日本海側で暮らした経験はないし、友人もいませんから。会社の同僚は『信じられん』という顔でしたが、実父の『それも人生。サラリーマン生活の先が見えてから転職するより、若いうちの方がいい』との後押しもあり、決断しました」。

 性格は「もともとネアカ」(河内さん)。ゼネコンの建築現場、食品工場などでよくバイトした。下宿代や好きな旅行費用にあてた。講義は真面目に通った方だという。4年次の指導教授は学生とのコミュニケーションを大切にし、月1回、ゼミ生から幹事を決め、1階の研究室でアルコール付き談話会を開いた。河内さんの番。直前の北海道旅行の記憶もありジンギスカンを計画し、学生食堂のおばちゃんに仕入れてもらったラム肉、友人の家から集めたジンギスカン鍋4台でイザ酒宴へ。教授が帰ったあとも続き、甘い煙は上階へ。「こらっ、責任者はだれだ!」と夜間部の教授が怒鳴り込んできた。教室へ上がれば、いい香りの青白い煙が天井にモクモク・・・・・・。翌日、教授と謝りに回った。

 「1号館でした。昨春、仕事で幕張へ行った帰りに卒業後初めてキャンパスに寄ったら、まだあった」。懐かしき“ジンギスカンの乱”。

 打たれ強いとはいえ、転身して2年間は無我夢中だったらしい。かまぼこ工場と家の往復だけ。その後、総務や人事、営業畑へ。「時間と気持ちに少しゆとりがうまれ、周りを見たら、仕事が終わったあとの飲み友だちや遊び仲間がいないのにハタと気づきました。ホームシックになりかけたときがありました」。正直である。これはまずいと、義父の勧めもあって富山青年会議所(JC、会員200人)へ入会。試行錯誤して自分でタグを組み、河内屋のホームページを公開したのも同じ96年であった。

 社員のパソコン1台体制を地方では早くに実現、99年「楽天市場」へ出店するなど、地元中小企業のIT化の原動力になった。「いま社員42人ですが、社内に理系人間が私ひとりだった点も幸いしました」と笑う。

 意外なことが起こった。それまで役員など積極的に活動してきたが、2006年、伝統ある富山JC理事長(任期1年)に選ばれた。「ここでまた悩みました。私はよそもの〔こちらの言い方では「旅の者」〕。しかし、ゼロから作ってきた多くの仲間の助け、家族の応援があり、ちょっと無理してみました。北陸新幹線開通が現実的な時期で、会社と自分を知ってもらえればという気持ちもありました」。その工事はあと2年余で富山を経て金沢まで達する予定だ。東京へ、金沢へと人の流れを吸い取られない戦略を早急に考えなくてはならない。

 いま就活中の後輩へメッセージを。「たくさん採用面接をやってきました。いまの若者は自己PRが下手。上手になるには人とのコミュニケーション力をつける、つまり人と付き合い、生きる力を学ぶ。それと、これからは英語くらい話せた方がいい。僕は使えないけど、子どもにはそんな教育をしています」。トップの言うことは、どこか共通している。

NEWS CIT 2012年1月号より抜粋