※本文中の役職等は取材当時のものです。

得意先・地域社会・従業員
3者の連携を柱に

「勉強でも遊びでも、人とコミュニケーションをとれる人間に」と、藤木さん
「勉強でも遊びでも、人とコミュニケーションをとれる人間に」と、藤木さん

三協立山アルミ社長

藤木 正和(ふじき まさかず)氏

(昭和43年、建築学科卒業)

 経済はまさに東京一極集中。首都圏へ本社機能を移す企業が多い中で、三協立山アルミ株式会社は富山県に拠点をすえ、地域立脚主義を貫く。グループ全体で1万人近い従業員のうち約5000人を要する中核会社である同社のトップは藤木正和社長(66)。1968(昭和43)年に本学建築学科を卒業した。在学中4年間、応援団員として活躍し、そのパワーはいまなお健在だ。

 「三協」とは、得意先・地域社会・従業員の3者を指す。互いに手をたずさえ、「出稼ぎのない県」を目指し、北陸地方屈指の企業として地域づくりに尽力してきた。昨年がちょうど創業50周年。

 おりしも人口減少社会に入ったニッポン。住宅着工戸数は下降ぎみだ。ビルや住宅の建材(サッシ、ドアなど)、エクステリア建材(門扉、フェンス、テラスなど)の製造・販売が主力だけに、時代は決して楽観できない。「私たちはアルミの将来性にかけている。商品への信用さえあれば乗り切れる確信があるし、新しい価値を創造し前へ進むという方向性を社員は分かっていると思う」と同県高岡市の本社で藤木さんは話す。

 「たとえば玄関ドアの屋内側にタテ長の鏡を付けた。全身が見える。身だしなみに気を使う女性社員ならではのアイデアで、お陰で評判は上々です」。

 富山市で生まれ、中学生のころパイロットを夢見た。近視のため断念し、高校では山岳部で活躍し本学へ。建築は当時、花形学科だった。「友人とマージャンし、よく遊びましたよ」。

 サークル活動は大学生活第2の華である。はじめは山岳部へと思っていた。その矢先、応援団員に誘われ、はまってしまった。ブラスバンドを含め100人に及ぶ大部隊。野球部、空手部といった大学対抗戦などで声援する。「あれは活動のほんの一部。日ごろは地道に発声練習や走り、腕立て伏せなど体力をつける。いまの学生には合わないようで人が集まらず、休団中と聞いています」と、いささか寂しげだ。

 学ランに身を包んだバンカラ暮らしだけではない。夏休み、テントをかついで友人と北海道をほぼ1カ月周遊し、あるいは団の合宿費かせぎにアルバイトをするなど、体験は幅広かった。「1年生のとき下宿は幕張の民家で、海に近く、下宿のおばさんに『アサリ取ってきて』といわれ、潮干狩りをしたこともある。みそ汁にして食べました。うまかったですね」。みな懐かしい思い出だ。

 卒業研究は、美術館・博物館の展示方法と来館者の滞在時間の相関をテーマにした。上野の国立西洋美術館、国立博物館などへかなり足を運んだという。卒業設計も美術館。結構まじめだったようだ。就職はゼネコンを志望したが、恩師から勧められたのがいまの会社だった。ふるさとは近くなった。

 設計部門を1年やり、そのあとは「そのころ、本音ではやりたくなかった」営業畑一筋。上司の説得がおもしろい。「『能弁な人はそれなりに、無口な人にもそれなりにやり方のあるのが営業。営業マンに向き不向きはない』と。ウ~ンとうなりました」と藤木さんは笑う。横浜、神戸、東京などをめぐり、系列会社の社長をへて2009年に現職へ。

 「現代の若者はよく、『好きなことをやらせてもらえそうにないから、この会社はやめる』と言う。そんなわがままを聞いてくれるところはどこにもありません。先ずは与えられた環境を受け入れて全力でがんばる。自分が力をつけた時に、本当にやりたいことをさせてくれる会社を選ぶべきでしょう。そして勉強でも遊びでもいいが、人とコミュニケーションをとれる人間になっておくことが大切」と強調する。

 本学出身者はいま同社に41人いる。社員の1%弱。「これからの低炭素社会では環境にもっと配慮し、ユーザー視点に立った企業責任を果たしていかないといけない。そのためには技術力を伸ばし、また海外へも目を向けることになるでしょう」と語り、次の半世紀をになえる人材を強く求めていた。

NEWS CIT 2011年2月号より抜粋