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※本文中の役職等は取材当時のものです。

常に「なぜ」と考える
宣伝不要“安くていいもの”

熱弁をふるう貞末良雄氏
熱弁をふるう貞末良雄氏

メーカーズシャツ鎌倉(株)会長、
(株)サダ・マーチャンダイジング・リプリゼンタティブ代表取締役

貞末 良雄(さだすえ よしお)氏

(昭和39年 電気工学科卒)

 明月院のアジサイが鮮やかな紫の世界を誇る。94年初夏。JR鎌倉駅から続く人並みのお目当ては鶴岡八幡宮ではない。参道・段葛の北端を右に回って、源氏池をすぐ左手にのぞくファミリーマートの二階。「4900円」の高級ワイシャツが売り棚に並ぶ「メーカーズシャツ鎌倉」に人々は続く。53歳の前年11月、夫婦二人が雪ノ下で始めた店は「今日も一枚も売れない」日々。それが一転、広がった口コミの評判が客の大波を届けてくれた。

 原価が売値より高い。大切なことは「これはすごい、という客のメリット」。確固とした品質。お客を囲い込む経営戦略。1日3枚売れれば、店の家賃は何とか払える。夫婦の給料はゼロ。それでも、売れない「兵糧攻め」をしのげば何とか、なる。じっと耐えた。あの感激のアジサイの季節から16年余り、今、首都圏で11店舗を展開、年間約30万枚のワイシャツを販売する。社長は妻、民子。ふるさと「鎌倉」にこだわり、社名もロゴも鎌倉入り。

 男5人女4人の9人兄弟の6番目。終戦の翌月、父は韓国・釜山の呉服商の大店をたたみ、引き揚げた。家財を失った一家は故郷・山口県柳井市を出、広島に新天地を求め、再び呉服店を営む。再起を図る「貞屋」。この屋号が人生を決める。

 名門の旧制広島一中、後の国泰寺高校では数学に才を発揮、理科系に大学進学のターゲットを絞り、国立大を狙うも一浪の末、千葉工大へ。父から「兄弟で一番商人向き」と評された一面はまだ見えない。当時、東京オリンピックの高速道路建設に伴う街路照明の研究・開発が盛んで、この分野を学ぶ。キャンパスライフでも軟式テニス部を立ち上げ、あちこち駆けずり回って10万円の建設資金の寄付を集め、テニスコートを作ったりした。活動的な性格は着実に培われていく。

 運命的、決定的な石津謙介との出会いは社会人になって2年ほど待たなければならない。石津は「VAN」ブランドで知られる「ヴァンジャケット」を創業したファッションデザイナー。家業の「貞屋」と「ヴァンジャケット」のこれまで見えなかった糸が現実に姿を現わす。

 初めて勤めた水銀灯など特殊照明の会社は「ドイツ語の本を読みふける技術屋でいるよりも、世の中のためになりたい」とあっさり初心を撤回、退社。学問を捨てて、裸一貫やり直す決意を胸に飛び出した格好だが、売り手市場の当時の就職状況でも厳しい。父のつてで受験したシャツ会社の3社も次々落ちる。最後は「貞屋」が特約店になっていた「ヴァンジャケット」の「石津さんのところへ、朝6時から家の前に座り込んで頼めば何とかなるだろう」と父。開通したばかりの新幹線で大阪本社へ、専務に直談判。「君、健康か?」「はい」「明日から来いや」。これで入社面接パス。翌25歳の春、勇躍、入社式に臨むも約50人の新入社員名簿に漏れていた。逆に、石津に「名前を呼ばれなかったやつ」と妙なところで覚えられた。

 78年、「ヴァンジャケット」が倒産するまで、商品管理部、営業管理統括部と、アパレル業界の最前線で学び、物流という概念を叩き込む。課長時代から役員会に呼ばれた。経理、工場、生産の問題点など会社全体の問題点を把握した。常に「なぜ」と考え、レポートにまとめ、経営改善への『建白書』も何度も上申した。鎌倉での起業への伏線は芽をふき、育っていった。34歳で高齢パスした企業研修のハワイ大学では半年間、英語力をさらにブラッシュアップ、将来に備えた。

 VAN後の服飾業界での長い15年間の回り道。メーカーズシャツ鎌倉の立ち上げまでには「お前、何やってんだ」としばしば叱られ、男がオシャレをしなくてはだめだ、と理想をこんこんと聞かされた。そんな石津の考えを継承するのが、一年発起、メーカーズシャツ鎌倉だ。

 1万円で2枚のワイシャツを買える値段。お釣りで近くの店「ドトール」で200円のコーヒーが飲める。だから「4900円」。2枚買えば、きっと次は4枚に。「安くていいもの」。賢い消費者。生活を豊かにするショッピング。宣伝費は一切ない。一方的な商品情報は不要。お客と店と双方向の情報やり取り。それが現代。問屋機構もいらない。

 「生き延びる力、すなわちそれが能力です。学問だけに頼らない姿勢を」。丸顔の笑みの中に、VAN、ヤオハン・・・倒産した昔の会社の教訓が滲む。

NEWS CIT 2010年3月号より抜粋