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※本文中の役職等は取材当時のものです。

JTB初 技術畑出身のCIO
会社人間だけじゃない 何事にも夢中

「仕事をやる上で、打算はしない」と語る佐藤さん
「仕事をやる上で、打算はしない」
と語る佐藤さん

元JTB取締役 最高情報責任者(CIO)
現JTB情報システム代表取締役社長

佐藤 正史(さとう まさし)氏

(昭和46年 電子工学科卒業)

 国内外の総合旅行業のマンモス企業「JTB」で初めて技術畑出身の役員(Chief Information Officer)が誕生した。この人事に「営業主体」の業界に驚きが走る。2001年6月。CIOは「最高情報責任者」「情報システム担当役員」「情報戦略統括役員」といった訳語が充てられるが、まさにコンピューター時代、IT時代を代表する要職を担う。IT業界からは取材や講演依頼が相次いだ。JTBの目を見張る拡大・成長を支え続けた“コンピューター屋”の面目躍如だ。

 道東地方。北海道北見市に近い常呂郡置戸(おけと)町。厳冬期マイナス25度を記録する朝も経験した。その置戸中学2年生の時、「電子計算機」を紹介した学習雑誌に出会った。「将来、人間に代わって算数やいろいろな事が出来る」とある。思わずうなった。13歳の釣り大好き少年。脳裏に、後年「コンピューター」と誰もが知る「計算機」という言葉がしっかりと刻まれた瞬間だった。

 60年安保闘争当時の日本。コンピューターは全く未知の世界の「機械」であった。「電子頭脳」はとても気になる存在ではあったが、知識を得る資料も乏しく、勉強するにも方策がなかった。「人間の脳に代わるもの。いったい何?」「出会ってみたい。使ってみたい」。じっと潜在化していた探究心。それがふっと、頭をもたげたのは4年後、大学進学を控えた高校3年。取り寄せ集めた大学の資料の中、千葉工大には米国バロース社の電子計算機がある、という。他の大学には見当たらない。進路は一も二もなく決まった。

 が、恋焦がれた「憧れのコンピューター」に会えるには4年生まで待たなければならなかった。1年から体育会スキー部にのめり込んだ。長期の合宿。学資稼ぎのアルバイト。アルペン千葉県5位。学業と疎遠になりがちな世間並みのキャンパスライフ。もう一つ3年の時、友人が学友会の会長になったことがきっかけで副会長に。学内封鎖という学園紛争の嵐の中、時流に逆らい学内正常化を掲げてセクト派の学生に脅されることも。4年の就職活動期まで、コンピューターの勉強もまるでしていない。

 それでも、卒論は「大学入試の解答におけるコンピューター処理」とした。情報工学の新分野のソフトウエアを扱った。ハード主体の審査の教授陣は「電気も回路も出てこない」主張に面食らったのか、あっという間にパスしてしまう。

 まだ「コンピューター・プログラム」といわれていたソフトウエア開発に取り組みたかった。その一心でJTBへ進路を定める。技術採用の同期生10人の中でも、大学でソフトウエアを勉強してきたのは唯一人だった。ちょうど、JTBは膨大な旅行・宿の予約を一括管理する第一回目のオンラインシステムを作り上げたばかり。

 コンピューター部に配属され、基幹システムの開発に没頭。10年の間に、JTBに大変革を引き込むTRIPSII、IIIの立ち上げを成功させた。IBM、東芝といったメーカー側との真剣、厳しいやり取りの中、漢字表記の発券機など「日本初」のアイデアや創意工夫を満載した新システムの誕生だ。連日、深夜帰宅の残業は当たり前だった。そのひた向きな頑張りぶりが上層部の目に止まり抜擢を生み、超エリート部門の経営企画室へ転属という畑違いへ転身。ここでも予算編成システムをばっさりと構造改革する「いい仕事」を遂げる。

 6年前から高校時代の文化祭で演じたエレキギターを再び手にする。テケテケテケ・・・・・・そう、団塊世代の教祖、ベンチャーズ。川釣りのフライフィッシングは30年以上のキャリア。開高健のようにアラスカでも投げた。さいたま市の自宅でガーデニングにもはまっている。会社人間だけじゃない。何事にも夢中だ。

 「仕事をやる上で、打算は一切しないこと。没頭する。その瞬間、その時に全力で取り組む。それがキャリアにつながる」。175センチの痩身が「ドゥー・マイ・ベスト」を体全体で発散する。

NEWS CIT 2010年1月号より抜粋