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※本文中の役職等は取材当時のものです。

サラウンドの世界に魅せられ
「行動すれば世界が広がる」

「興味こそ原点、継続は力」と語る沢口さん
「興味こそ原点、継続は力」
と語る沢口さん

元NHK制作技術センター長
パイオニア技術顧問(オーディオ担当)
有限会社沢口音楽工房代表取締役

沢口 真生(さわぐち まさき)氏

(昭和46年 電子工学科卒)

 大阪万博の翌昭和46年。下宿代わりに借りたNHK山形放送局近くの土蔵2階。広さ20畳の空間いっぱいにオーディオ・システムの大音量が響く。外部には一切、漏れはしない。近所に迷惑は及ばぬ。至福のマイ・スタジオ暮らし。NHK技術マンとしての、みちのく社会人スタートは同時に、「音」との二人三脚人生の始まりであった。

 温泉郷・大分県別府。市内唯一の県立別府鶴見丘高校2年の時、ドキュメンタリー本「電子の世紀」に出会う。「研究者ってのはすごいな。技術研究したい」。この本が電子工学の世界へ進む扉を開いてくれた。

 少年のころから鉱石ラジオを作った。高1には物理クラブを級友3人と創部もした。だから、当時、福岡に開学したばかりの九州芸術工科大学への進学を教師に相談するも、すでに一升酒を飲み干すケタ外れのばんから高校生気質、成績は思うように上がらず、「お前の点数ではだめだ」とあっさり袖にされた。しからば、と九州を出て上京、千葉工大への受験に大きく人生の舵をきる。

 千種寮へ入った。ところが、隣の先輩がジャズマニア。ドラムセット一式を持っていて「お前もやれ」。無理やりスティックを握らされた。が、これがなかなかうまい、とおだてられたからか、以来、卒業するまでモダンジャズのドラマー三昧。新宿や千葉へ出かけてはバンド仲間とライブ巡り。ついぞ勉強はしなかった。

 NHK入局もいわば離れ業だった。「技術の世界、出来ればNHKに」と、就職相談。「バカ言え、千葉工大からNHKに行った奴はいない」とまるで取り合ってもらえないまま、千代田区内幸町のNHKに出かけ願書をそっと出した。B、Cの並ぶ成績表をみた担当者は「一応、預かります」。運命は急展開する。何が、うまくいったのか。同期技術職32人の仲間入りを果たしてしまう。千葉工大出身者初のNHK突破だ。

 音は、音楽としか知らなかった。しかし、制作技術センターでラジオドラマのミキシングを担当するようになって、音楽、効果音、役者の台詞という幅広い、奥の深い音の世界にぐいぐい引き込まれていく。やがて、ステレオ2チャンネルでは表現に限界を感じ、新たな音響表現を模索してたどり着いたのがマルチチャンネルサラウンド。毎年、自費でアメリカ、ヨーロッパへ出かけ、サラウンド世界を引っ張る技術者に会い、最新情報を吸収した。1986年にはドルビーサウンドの実情習得のためハリウッドへ飛び、10日間に及ぶ米国映画関係者からの指導やジョージ・ルーカスのスタジオで貪欲に情報を集めた。まさに目から鱗が落ちていった。1987年、テレビ界では世界で初めてサラウンド対応で番組制作が出来る「CD809」スタジオをNHKに作った。こうして得られた知識は、逆に恩返しとAESをはじめとする世界のセミナーや論文発表を行い、サラウンドSYOGUNと呼ばれ始めた。サラウンドという「音場」への不断の努力が結実したのが1995年。第1回IBCグランプリを受賞した、オーストラリアとNHKとの共同制作ハイビジョンドラマ「最後の弾丸」だった。

 音響一家になった。シャンソン歌手の妻美奈子さん(58)はJR三鷹駅前でジャズライブの「UNAMAS」を仕切る。その妻は山形時代、仲間と組んだハワイアンバンドのボーカルだった。長男は、プロのジャズドラマー。「やめとけといったのに」。二男はニューヨークで音響メーカーに勤務する。

 サラウンドの普及と若い世代にサラウンド制作を行ってもらうため今、「サラウンド寺子屋塾」を主宰する。東京芸大の教壇にも毎週木曜日、90分立つ。「異文化へ、違う環境へ、自分で努力して半歩動きなさい。行動すれば、世界が広がるんだ。それが新しい興味につながる」。興味こそ原点、継続は力、と柔和な視線の奥に頑丈な意思を見せた。

NEWS CIT 2009年11月号より抜粋