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※本文中の役職等は取材当時のものです。

ひらめきで商品開発
大ヒット「富士登山記念印」が誕生

「人生、まったく面白い」と小澤さん
「人生、まったく面白い」と小澤さん

全国観光土産品企画卸印章・アクセサリー販売(株)
「藤二誠」代表取締役会長

小澤 誠(おざわ まこと)氏

(昭和39年 工業化学科卒業)

 フィギュアスケートの猛練習で痛めた足は、横になるとズキズキ痛んだ。「なに、揉めば治るさ」という荒療治が災いした。眠れない。東京オリンピックの昭和39年。22歳。窓外の富士山は月明かりに照らされ、煌々と輝く。顔をゆがめながら眺めていると、ひらめきは突然、山頂から降ってきた。「そうだ。これだ」。大ヒットの土産品「富士登山記念印」の誕生だった。

 その年4月1日、未舗装だった五合目まで約30キロの悪路が、富士スバルラインとして華々しく開通したばかり。五合目の土産物店で、350円の富士登山記念印はまさに飛ぶように売れた。印鑑とキーホルダーを合体した業界初の発想も、子供たちから「おじちゃん、キーホルダーにくっつけて」とせがまれたのがヒント。アイデア勝負の新商品開発。6年後の昭和45年、「藤ニ誠」創業への序曲は始まった。

 甲府一高時代、自分の進む道が判然としないまま、昆虫や写真の趣味に没頭した。その頃から甲府からはなぜか、東京を飛び越えて千葉の風景がよく見えた。「カレッジで一番になりたい」。数学、化学が好きだった。千葉工大に進学を決めた。「鶏口となるも牛後となるなかれ」との思いから、やせた体形もあって、何よりも「目立つ」から、誰も取り組まない男子フィギュアスケートのトップを目指した。スケート部を作って白樺湖合宿にも打ち込んだ。

 津田沼を朝5時に出て、学校ではなく、定期券で池袋・東武デパート屋上のリンクへ。ひたすら回転ジャンプの練習。3回転半の今と違って、1回転半の技で拍手喝采だった。国体出場を理由に教育実習を免除され、教員免許を取る。卒業後会社勤めを経て5年間、県立谷村高、機山高で化学の先生に。富士登山記念印を思いついたのは、富士北東部の山梨県都留市に住んだ谷村高校教員時代。この時、人生を決めたもう一つの出会いがあった。

 今では教員のアルバイトは厳しく禁止されているが、その当時はおおらかな時代で夏休みのアルバイトにダイヤなどの宝石を県内で売って歩いた。人柄が好かれ、販売実績は好調だった。中学生40人ほどを集め、夜間、二部制の学習塾も主宰した。教員の月給2万円、25歳の時である。50万円の日産スカイラインの新車を購入出来た。才覚が花開いた。

 霊峰・富士に見守られ、縁は育った。アルバイトの宝石を貸してくれた印鑑商は借家の塾の隣家。「婿取り」の商家なのに、その娘、3歳下の良子さんと結婚。良子さんの旧姓「藤森」の「藤」とイコールの「=」、自分の名前「誠」をつなげた「藤二誠」。夫婦2人きりの会社。『夢』を社訓に掲げ、レール網は着実に拡大して行く。

 今、「藤二誠」は全国観光土産品の民芸品(非食品)分野を独走するガリバー企業だ。各地の高速道路サービスエリア、温泉地、イベント会場で、販売される多種多用な商品に「藤二誠」のブランド名はないものの、必ず誰もが手にしている。年商52億円。印鑑キーホルダーは年間100万個を売り尽くす。愛・地球博覧会(愛知万博・2005年)では期間中、商品300種、200万個が出て、10億円を売り上げた。

 ディズニーやハローキティなどと提携したキャラクター商品も根強い人気を維持する。「業界のトップになったのも、あの、富士登山記念印の思いつきがきっかけ。それも、スケートのケガが発端。人生、何が幸運を呼ぶか、まったく面白いですね」「しっかり『竹(が育つ)のように』節の時と成長の時期を見据えて行きたい。沖縄への商圏拡大が当面の課題です」

 39年間、ひた走った社長業は今春、長女の婿、藤巻睦久氏にバトンタッチした。会長になって、少しだけ生まれた時間的余裕は週1回午前中休みを取ること。清流に分け入りヤマメを釣る、珍しい蝶を網で追う、地元の蛍を増やす会でも活動する。「昆虫少年」のやんちゃ顔が70歳を前にまた出始めた。「ヤマメは家で冷蔵の水槽で飼ってるんです」。破顔し、照れ笑う。

NEWS CIT 2009年9月号より抜粋