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※本文中の役職等は取材当時のものです。

“初代応援団長”で人間形成
旭山動物園の工事施工や車イス寄贈も

『誠意と責任感が信条』と語る西館さん
『誠意と責任感が信条』と語る西館さん

西館建設(株)社長

西館 勝友氏

(昭和42年 建築学科卒業)

 「千葉工業大学のOBたちは母校への帰属意識を持ってほしい」とにこやかに語るのは、北海道旭川市で建築・土木の施工会社「西館建設(株)」を経営する西館勝友氏。

 大工だった父親・治三郎さん(98歳でご健在)の長男として旭川で生まれた。治三郎さんは、西館さんが物心がついた頃は大工さんの労務下請けの仕事をしていた。毎年約200人近くの大工さんが、東北地方から“出稼ぎ”として治三郎さんの元へ働きに来ていたという。幼い頃からこの光景を見ていたため、「言い方は悪いが、“私は子どもの時から飯場(はんば)育ち”」と冗談ぽく笑う。

父親の後ろ姿見て育つ

 一人っ子で、父親の後ろ姿を見て育ち、道立旭川北高校から本学建築学科に進んだ。「当時の入試科目の中に英数理のほかに、得意科目の社会科が含まれていたからだった」と言う。

 入学と同時に西館さんは応援団に入部した。だが、当時の応援団は同好会程度の活動。「きちんとやらねば…」という気概の西館さんには馴染まなかった。そこで、西館さんは「自分たちは厳しくやっているのに…」と、2年生の時に先輩たちを追い出した。3年生で実質的初代の応援団長となり団員も増えた。4年生になると、弱いと言われた硬式野球部が頑張って、神宮球場への出場を決めたため、応援団の中に吹奏楽部をつくり、団員は100人以上に膨れ上がった。「楽器はお金がかかるので、当時の川島正次郎理事長にもお願いしました。神宮球場に行きましたよ」。丁寧で穏やかな話し方で、元応援団長らしくない。

 その頃は、北海道や九州からの入学生が多く、4年生の夏休みには、郷里の旭川市内で応援団合宿を張った。団員も90人が参加、旭川駅前から団旗を立て、派手にパレードして地元の人を驚かせた。

 就職は、大学で指導を受けた羽倉弘人教授の紹介で札幌の建設会社「石山組」へ。面接を受けた翌日には採用通知の電報が来て、西館さんを感激させた。だが、自分で建設会社を立ち上げようと3年間勤めて退職した。退職理由は「父の体の具合が悪いので…」だったが、事情を知っていた会社の専務からは「何時戻って来てもいい」と声を掛けられるほどだった。

あいさつに気持ち込めて

 そして、25歳の若さで西館建設を興した。仕事の上で最も印象に残る出来事は、「開業間もない12月ごろ、金額の大きな仕事があり10数社の指名に入りましたが、見積提出後まだ営業不慣れのため他社より遅れて一番最後に挨拶に寄って『よろしくお願いします』と腰を90度に曲げてあいさつしました。すると、そこの社長さんが『土建屋はあいさつができない人が多いが、あなたのあいさつはとても丁寧でした』と感激されて、その仕事を任せてくれたんですよ」と昨日のことのように語る。4年間の応援団活動は決して無駄ではなかった。

 西館建設は、昨年、今年と北海道庁の建築「Aランク」の指定を受けた。いま話題になっている旭山動物園内の“ふれあい動物舎”の工事も請け負った。

母校で「遠隔キャリア教育」実現

 仕事を離れても、旭川北高校同窓会長の立場も十分に考えている。昨年10月には全国初の「遠隔キャリア教育」を実現させた。生徒の進路意識を高めてもらおうと、旭川ケーブルテレビを中継し、東京にいる同高OBがモニターを通して講師役を務め、在校生に仕事の体験談を語る。生徒からも質問ができ、有意義な教育の場になった。西館さんは「今後も続けていけたら……」と話す。

津田沼祭が待ち遠しい

 2004年から2005年、国際ロータリー100周年の時の「旭川北ロータリークラブ」の会長も務めた。体の不自由な入園者のために車イス25台を旭山動物園に寄贈した。

 もちろん、本学への思いは人一倍強い。11月の津田沼祭が近づくと気持ちが落ち着かない。「毎年、津田沼祭は欠かしたことがない。来れば必ず応援団の後輩たちに会えますからね」。今年は応援団の創立40年目。「津田沼祭に合わせていま企画を考えています」と嬉しそうに話した。

 本学の学生に対しては「いまの学生たちは、メリハリが無さすぎる。そして、あいさつができない。言葉遣いができない」と苦言を呈する。

 信条は「誠意と責任感」とズバッと言い切った。

 趣味はハンディー14のゴルフと10年以上前からのソバ打ち。それに「幼い頃からやっている『書』ですかね」と微笑んだ。

NEWS CIT 2007年2月号より抜粋