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2015.10.15

活躍する校友


変化は速い
若い人は好きなことを・・・
 戦後70年。青春を翻弄された戦時下の記憶は消えつつある。「思い出すよすがに」と本学の前身、興亜工業大学予科1期生、松本忠夫さん=写真下=が当時の回想録をまとめた。回想録は「大学生時代回想」と名付けられたA4判60ページにわたる大作だ。このほか、当時の教科書や参考書などの貴重な資料、写真などは今後、同窓会で全てをデジタル化し「実物」とともに図書館に保管され、現役学生が閲覧することも可能となる。この回想録や資料の寄贈を機に、今夏、27年ぶりに訪れた津田沼キャンパスで一端をうかがった。

本学第1期生
松本 忠夫(まつもと ただお)氏(92歳)
(昭和22年、機械工学科卒)

 
1期生が回想録を公開
戦禍にもまれた学生時代
■零戦に惹かれ予科に
 埼玉県熊谷市生まれ。戦闘機「零戦」のメーカー・中島飛行機のあった群馬県太田市に近い。空を舞う勇姿にひかれ、旧制中学を終えて航空技師を志し、玉川学園(東京都町田市)の一角にあった興亜工業大学予科(教養課程)に入ったのは開校と同じ1942(昭和17)年6月である。
 玉川学園の創立者は「全人教育」で有名な小原國芳氏(1887〜1977)だ。同学園の大学部として本学は誕生を予定していたが、時勢から「玉川」の名は冠せられず、現存するわが国最古の私立工業単科大学興亜工業大学として船出。軍事教練の一方でリベラルアーツを重視、「工学部の進学生はゲーテを原語で読むことはなかろう」(独文学者の故・井上正蔵氏)と『ファウスト』を講読していた。
 しかし、学びの時は終わろうとしていた。開学したその月、日本は太平洋上ミッドウェー海戦で大敗を喫し、暗雲に覆われ始めていた。「国民は知るよしもない」(松本さん)。
 その影は、塾と呼んだ寮生活の食堂で、主食(コメ)の質量の低下となって現われた。松本さんら寮生は近隣農家でイモや栗を買い出しし補った。一方、合唱団に加わってベートーベン第九「合唱」の舞台に立ち、大東亜戦争美術展やダ・ヴィンチ展(イタリア)を鑑賞。気分を発散させていた。
予科第1期生の入学記念写真(昭和17年6月8日)
予科第1期生の入学記念写真(昭和17年6月8日)
予科第1期生の校舎
予科第1期生の校舎
■戦災で校舎を間借り
 だが、軍靴の響きは増すばかり。とくに武装のまま初秋(閉山後)の富士へ登る年に一度の富士裾野合宿軍事教練(1週間)は「きつかった」という。「美しき雲に翔け入る一機二機」。第1回の教練参加者で編んだ歌集『雄叫び』(42年11月)に松本さんはこう寄せた。
 兵力不足に悩む東条内閣は41年の大学に続き43年には予科も修業年限を短縮。学生の徴兵猶予停止だ。とくに飛行兵、航空技師は求められ、大日本飛行協会技術班員となった松本さんは陸軍航空士官学校などで訓練に追われた。
 そのため、「生らもとより生還を期せず」(出陣学徒代表の辞)と雨中の明治神宮外苑を行進した学徒壮行大会(43年10月21日)の見送りは参加できずじまい。自身もその翌月、徴兵検査を受け、時期未定のまま東部102飛行部隊(千葉県松戸市)へ入営を命じられている。
 3年のはずの予科は2年3カ月で修了、44年秋に航空学科(3年制)へ繰り上げ進級となった。この間、本学は玉川学園の地を離れ、上智大学(東京)や川崎市にある日本冶金工業内の仮設教室を転々。宿題をサボったら「同じ年齢の者が前線で戦っている。内地の君たちが怠けていいのか」と叱ったドイツ語の先生(ドイツ人)、空襲警報のサイレンに授業をそそくさと切り上げる先生など教授陣もさまざまだった。
学生時代の松本氏
学生時代の松本氏
日本航空横浜基地で合宿訓練(昭和19年6月22日〜7月6日)
日本航空横浜基地で合宿訓練(昭和19年6月22日〜7月6日)
戦争だけはごめん
■卒業76人、戦没なく
 下宿からそう遠くない横浜大空襲(45年5月29日)を目撃し、ほどなく8・15を迎える。「空襲や入営の心配が消え、うれしかった」。正直だ。冶金工場は使用不可となり、東京工大に間借りしたあと46年春、千葉県君津町(現・君津市)の周西校舎へ。軍備につながる航空学科は廃止、機械工学科へ統合され、千葉工大と改称した。「休講が多く、卒論指導もなかった」と残念そう。周西寮の火災(47年2月)をはさみ卒業式にはこぎつけ、大学の掲示板で知った日本ピストンリングに職を得た。
 第1期入学時(航空、冶金各40人と工業経営80人)のうち、卒業生は76人。「化学、医学など別な道に入った人もいます」。戦没者のなかったのが、せめてもの救いだろうか。
 会社員生活は16年前にやめ、妻と悠々自適の日々を送る。心臓や腰に故障はあるが、背筋は伸び、血色もよい。介護保険いらずだ。息子2人に孫が全部で4人。回想録(A4判60ページ)はパソコンに向かい、この1年集中して仕上げた。メールもこなす。
 本学の研究は今や宇宙へ及ぶ。「私の時代は布張り飛行機と言ってもよいころ。変化は速い。若い人は好きなことをすればいい。でも戦争だけはごめんです」。
 かくしゃくたり、92歳。
瀬戸熊理事長(右)、小宮学長(左)と
瀬戸熊理事長(右)、小宮学長(左)と
▼寄贈された資料の一部